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2023/07/26 “目標”は必要なのか

 世の中を生きていると、どんな人でも「目標」を持つようにあらゆる方向からプレッシャーを受け続けることになる。そして、多くの人が初めてそれを経験するのが学校だと思う。確かに、部活にしても勉強にしても、「目標を持ってコツコツ努力できる」人が報われるような仕組みになっている(少ない割合で例外は存在するけど)。

 しかし、果たして「目標を持て」というのはあらゆる場面で正しい教育的指導であると言えるのだろうか。目標を持つということは、少なくともその目標の方向に毎日少しずつ進んでいくということである。すなわちそれは、分散している興味や関心を一方向だけに振り向けていくことであり、言い換えれば、「目標以外の所から少しずつ離れていく」ということでもある。

 学力を付けさせることだけを教育の目的であるとするならば、学力に関する目標を設定させるのは正しいと言える。しかし、私は公教育の目的は個々人が楽しく毎日を送っていけるようにすることだと考えている。若い世代にとって、自分に本当に合っている(と思える)ことを見つけるには、興味や関心を絞り込むよりも分散させることの方が重要なんじゃないかなと思う。

 目標を設定してコツコツ頑張ることを楽しめる人はそれで良いと思う。でも世の中には、世間からのプレッシャーに駆られて設定した目標に苦しめられている人も多い。少なくとも、「全ての人が目標を持って毎日を生きることが当然」と考える風潮は絶対に広まって欲しくない。

 とは言いつつ、学校での教科指導において、「目標なんて無くても良いんだぞ〜」と言ってしまうのも、それはそれで何か違うと感じる。確実に学力を付けさせるという学校の役割も大事であることは間違いない。

 最終的には、「学校の先生はああ言うけど、別にそれが全てじゃないよな〜」と思えるような、何と言うか社会の余白のようなものが大事なんじゃないかと思う。具体的には、「何の仕事してるかわからないけど毎日楽しそうな近所のおじさん/おばさん」とか、「定職に付かないで親のスネをかじってる親戚」みたいな感じのものがそれに当たると思う。そういったものを社会から排除せず、愛する文化がある社会であれば良いなと思う。

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