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再々々提出 4回目の提出 設題:テキスト第5章において筆者は、沖縄の子どもたちの学習内容面での不利さについて例を挙げながら考察している。この考察をふまえて、その他の学習内容面での不利さについてあなたの体験を交えながら具体的な例をいくつか挙げたうえ考察しなさい。

 提出ありがとうございます。ただ申し訳ないですが再提出をお願いします。
 今回は動画や設題等でお願いしているように、「テキストや動画でふれられていないオリジナルのもの」
を複数挙げてもらうことになっています。
「しましょうね」の例はテキストや動画でふれていますので、それ以外の例を挙げてください。

 また設題では「経験に基づいた具体的な例」を挙げてもらうことになっています。
与論島の例は経験に基づいている点では良いのですが、具体的ではありません。
例えばどのような方言(単語)がわからなかったのか、
こんな言葉が別の意味に聞こえたなど、より具体的に記述してください。
 よろしくお願いします。

 沖縄の子どもたちの学習内容面での不利さについて、私自身の体験を交えながら具体例を挙げたうえで以下に考察する。
私自身、沖縄出身ではなく、沖縄の糸満に2年住んだことがある程度であり、沖縄の子どもたちと交流した直接的な経験や記憶は少ない。
 学習内容面での不利さについて、自分の体験としては、沖縄の方々との会話の中で、飲み会の誘いを断ったところ、「はっさ」というような表現を始めてされたときに、私は何を言っているのかわからず、困惑してしまった。なんとなく話の流れや雰囲気から良い意味ではないということは感じ取ることはできたものの、その意味合いは、あらまあ、とか、何かに呆れているときに発する言葉であることに面を食らったことがある。これは、お互いに円滑なコミュニケーションにならず、噛み合わなかった体験であった。また、「ぬし」や「いんがー」という言葉も、沖縄でよく聞いた言葉であるが、文脈から「ぬし」は人を指すことはなんとなくわかったが、「いんがー」が犬であることはわからなかった。特に「ぬし」は、仕事でも多用され、生活の中にも溶け込んでいる言葉であると実感したものである。ただ、これらのフレーズは、だんだんと慣れてくるもので、短くて使いやすく、結局お互いにわかりやすくなる表現手段でもあることから、沖縄で生活しているうちに自分でも使うほどになった。
 沖縄ではないが、与論島で生活をしたときに、与論語(与論の方言)で「とうとがなし、ふみゃがーびらん、ふがんどぅーさぬ」は、「ありがとう、こんにちは、おひさしぶりです」であるが、全く日本の標準語と違う言葉やイントネーションが多く、標準語から変化した言葉ではなく、与論から生まれた言葉であるような独自の言語を有しているように感じ、すべて与論語にされるとほぼ理解ができないという状況を経験した。別の言葉に聞こえるもなにも、そもそも何を発声しているのか全く分からない単語が連続するという状況を感じたのは、日本国内では初めてであった。このことは、方言で育った子どもたちが、標準語で授業を受ける際に、物事の観念やイメージがしっくりこない感じや、湧きにくいということと同様な事例なのかもしれない。このあたりの標準語とのずれが、学習内容面への不利さに関連していると言えるのかもしれないだろう。
 沖縄の子どもたちの学習内容面での不利さを再定義すると、学習内容として一律に文部科学省が指定しているが、それについて具体的に沖縄の子どもたちが通常の沖縄での生活において認識することが困難なもの、文化的に認識できないといようなものであり、一般的な都市部の子どもたちに比べて不利に働く要素となるものである。具体的に思いつくものは、電車を見たことがない沖縄の子どもがいるとすれば、電車にまつわる算数の問題は問題を解く際に概念化しにくいのかもしれないだろう。また、同様に山を見たことが無い沖縄の子どもがいるとすれば、山に関わる自然環境的な学習内容について、直感的な認識力に欠けることにつながり、それが点数を取るというような学習の局面では不利に働くことにつながるかもしれない。これらは、例えば、エスキモーが多数の雪の性状を認識することができるが、雪を見たことが無い人間にとっては、せいぜい2種類程度の雪の種別を区別できるというような話と似ている。ここでは、電車、山、雪の例を挙げたが、これらは沖縄の子どもたちが普段の生活で認識することが少ないものが、学習内容面での不利さにつながるという例を挙げた。
 考察として、学習内容面での不利について、沖縄だから不利さが多い、だから学力テストで点数がとれないのであるというのは、ある程度事実な側面はあるかもしれないだろう。しかし、それを強調することは、私は、なんとなく恥ずかしいと感じる。なぜなら、自分たちの環境の不遇さを盾に、自分たちの至らなさを正当化するようなものであると考える。それらの不利さをどのように乗り越えるかについて、教育政策を構築する側が制度としてこどもの学習に落とし込むことに価値があると考えている。
  以上(1,677文字)

※3回もレポートを再提出させる意味があるのだろうか。この教授は、学生をいじめる暇があったら、自分の研究をすればよいのにと、思うのだが・・・・
 他の学生にも同じように何度も何度も再提出させているのだろうか。
批判的なレポートでムカつく学生には、徹底的に評価を厳しくするような感情が湧くのは、人間らしさを感じる。
 結局、幼児性の高い人が評価する場合、レポートでもゴマすりレポートが評価される傾向があり、あからさまに研究内容を否定するような評価をする学生については、評価が下がることは、当たり前ではあるものの、実際にでくわすと「ああ、またか」となる。「ああ、またか」というのも、よく、レポートで根拠のない独善的な批判をすることから、評価者の感情を逆なでした経験があるためである。
 このやり取りに価値があり、折角、授業料を払っているので、貴重な時間をつかって対話できることもありがたく、このようにプロセスを表現することによって、価値が生まれる可能性を秘めている。
 
AI
評価者にごまをするレポートが評価される場合、それは時に状況や人間関係の複雑さ、権力関係に関連していることがあります。一部の状況では、正確性や客観性よりも、上司や評価者の期待に沿った言葉や態度が重視されることがあります。

ただし、これが全ての状況で通用するわけではありません。真実を伝え、客観的で質の高い情報を提供することが、本質的な学びや成長に繋がります。馬鹿に迎合することが知識やスキルの向上に繋がらない場合は、自分の信念を守ることが重要です。

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