見出し画像

宮野さんのはじめに、宮野さんの最後に

文章を生業とする人間が、人生の最後に書く文章とはどんなものだろう。
本の「おわりに」ではなく、「はじめに」が最後に手がけた文章になる研究者はどれだけいるだろう。

多くの方が10便に出る宮野さんの言葉を、彼女が最後に残した言葉として取り上げている。

でも時系列で考えると、彼女が最後に書いたのは10便ではない。彼女が最後に書いたのは、書簡の「はじめに」である。

偶然と運命を通じて、他者と生きる始まりに充ちた世界を愛する (235)

書簡10便のこの言葉は感動とともにすでに複数のメディアで取り上げれられているが、他方「はじめに」では、この言葉を実践することの難しさが描かれている。

常に不確定に時間が流れているなかで、誰かと出会ってしまうことの意味、その恐ろしさ。もちろん、そこから逃げることもできる (10)

他者と生きる始まりに満ちた世界を愛するとは、出会いがもたらす恐ろしさを引き受け、そこから「逃げる」可能性を潰す決意を含みこむ。

これが愛することの「始まり」であるならば、愛とはかなりキビシイ行為だ。

「始める」じゃなくて「始まり」

画像2

この書簡のキーワードの一つは「始まり」であり、これは「始める」と意味が大きく異なる。

何かを「始める」とき、その先にはなりたい自分がいて、達成したい未来がある。それは言い換えると、なりたくない自分、避けたい未来が十二分にわかっているということだ。だからこそ、先に見据えられた未来が大きくて重要であればあるほど、「始める」はリスク管理に満ちてくる。

他方、「始まり」は人やコト、モノとの出逢いによって、自らのコントロールの及ぶ範囲の外で何かが生まれることを指す。リスク管理に満ちた「始める」が、何かが生まれることの幅を狭めるのに対し、「始まり」ではその幅が開放される。

「世界を抜けてラインを描け!」は、書簡の第9便と「ダイエット幻想」の最終章のタイトルである。

ここでは出逢いの中で生まれる「始まり」に乗り込みながら、それを次の一歩への手掛かりにし、先に先にと進んでゆく生き方が描かれる。

 いく人かの人に、このような生き方はとてもできないと言われた。私も実際そうだと思う。

 本には、特に最終章には、筆者の人間性がどうしても出てしまう。現実の様相を淡々と描く人、「そうでありますように」という希望と祈りを込めてしまう人。私たちは明らかに後者のタイプであった。

真正を求めることの恐ろしさ

画像2

 宮野さんは9月に出した2冊目の単著「出逢いのあわい」の中で次のように書いている。

私たちは、偶然において真正であろうとせねばならないし、他者との出会いに向き合わねばならない。もちろん、真正であろうという願いゆえの選択は間違えることもあり、他者との向き合うことがつねに良き方向に向かうかどうかはわからない。可能なのは、善くあろうと意志することだけで、結局、偶然ゆえに苦しみ、誤り続けることになるかもしれない。それでも私たちは他者と関わることをやめないだろう。なぜならば、そこにしか「私」という存在が成立しないからであり、だからこそ、「全実存の悩みと喜びを繋ぐ」(九鬼全集 二・二五)べきなのである (311)

人間は常に素敵ではいられない。

遠くの不正や欺瞞に大きな声を上げる人が、自分の足元のそれらには目をつむり、そこで傷ついている人から目を逸らす。自分の地位を上げるためなら他人を貶めることも厭わない。

そんなことも人間社会の日常だ。そんな人間の恐ろしさを知りながらも、他者と出逢いに真正であることなどできるだろうか。

少なくとも私の知る宮野さんは、そんな人間の裏側に傷つきながら、自分にもそういう側面があることに向き合いながら、人が出逢いにおいて真正であれることの可能性を、そこから生まれ出る「私」の可能性を最後まで哲学しようとした人だった。

宮野さんの「最後に」

20190529トークションポスター修正案のコピー

宮野さんが最後に書いた文章は書簡の「はじめに」である。でも宮野さんは「最後に」も発している。

宮野さんの「最後に」は、今年の6月21日金曜日、福大の教卓からだった。

この日は、『戦う姫、戦う少女』(堀之内出版)の著者である河野真太郎さんを福岡大学にお招きするイベントが開催され、宮野さんは対談相手であった。

宮野さんはこの日のために作ったスライドのタイトルを「最後に」とし、次のように書いている。

私たちの生きづらさの根っこにある社会の問題
→それは労働やジェンダーと切り離せない。河野さんのお話へ。
<みやのからのおまけ>
「愛され」「承認」を求めるとき、私たちは自分という存在を部分化し切り売りすることになる。→いっう進む「分断」
しかし、誰かを「愛する」ことは部分ではなく「全体」へのコミットではないか、愛することを愛されから取り戻せ!分断より連帯を。


宮野さんはこの日の前夜、このスライドとそのための配布資料をベッドの中で準備しながら(というのも、この時点ですでに机に座って仕事ができる状態ではなかった)、自分が言いたいことは次に尽きると教えてくれた。

愛されを囁き、部分化・断片化する社会の中で分断に陥ることなく、「愛する」ことを取り戻せ!

これはいうまでもなく<みやのからのおまけ>に呼応する箇所である。

シンポジウムや個人発表、ましてやこのようなトークイベントためのスライドに「最後に」という言葉を入れるのははっきり言って奇妙である。

書簡の中では「死から今を照らしたくない」と言いながらも、学生の前で話すのはこれが最後になるかもしれないことを宮野さんは予測していた。これを逃せば次はないかもしれないことを感じ取っていた。

だから最終のスライドが「最後に」になってしまったのだろう。

とはいえ、このイベントの主役は自分ではなく、河野さんである。自分が役割を十二分にわかっていた宮野さんは、自分が「最後に」伝えて、残したい言葉であるにもかかわらず、<みやのからのおまけ>なんてオール平仮名のヘッディングをつけ、極力控え目な形にそれを仕立た。

「愛され」と「承認」の罠を抜け出し、他者との「始まり」に満ちた世界を愛すること。

私たちは、他者から愛されたいし、承認されたい。でもそれを望み過ぎると他者と真正に向き合うことはむしろ難しくなり、自分や他者に値札をつけて値踏みするような生き方を選ぶことになる。

この罠から抜け出すことの難しさを、この罠の中にいることで得られる利益もあることを、誰よりも知っていたのは他ならぬ宮野さんだろう。

でも、だからこそ、宮野さんはそこから抜け出すことの可能性を探り、その先に見える希望を九鬼哲学を素地に哲学し続けていた。それを「愛する」という言葉で世界に伝えようと模索していた。

『急に具合が悪くなる』によって、宮野さんの言葉はこれまでになく多くの人に届けられることになった。

でも私は思う。

宮野さんは「死」というインパクトをもって初めて注目されるような哲学者ではない。彼女の言葉は彼女が生きているうちにもっと多くの人に届くべきだった。

彼女の言葉を真摯に受け取り、広げてくれているこの本の読者の皆さんに心からの感謝を捧げ、このnoteを締めたいと思う。

『急に具合が悪くなる』を丁寧に読んでくださった皆さん、本当に、本当にありがとうございました。

皆さんの来年が始まりに満ちた日々でありますように。

磯野真穂



お読みくださりありがとうございます。いただいたサポートは、フィールドワークの旅費、書籍購入など、今後の研究と執筆活動のために大切に使わせていただきます。