見出し画像

「アート思考」と「煎茶」考察②    ー「論理的思考の暴走」と「美意識」ー

前回の記事では、野球の試合における「思考」を引き合いに出しながら、

目まぐるしく変化する複雑な状況においては、
「客観的」な「分析」に基づく「論理的思考」、
すなわち、「サイエンス思考」は、必ずしも状況打破のための結論を導かない、

むしろ、「主観的」に「全体」を捉えようとする「直感」、
すなわち、「アート思考」こそが、状況を好転させる解を導き出す、

ということを述べてきました。

今回は、「アート思考」においては、
「主観」「全体」「直感」に加えて、
「美」の必要を書いていきたいと思います。

まずはこの名著を引用させていただきます。
すいません、孫引き部分も含みます。

山口周『世界のエリートはなぜ「美意識」を鍛えるのか?』(2017年 株式会社光文社)

同書の『「偏差値は高いが美意識は低い」人たち』という小見出しの中で、
受験エリートたち、つまり、徹底的にサイエンス思考を叩き込まれ、受験という偏差値システムに対して、完璧に適応してきた人たちの組織として「オウム真理教」を考察しています。
「オウム真理」は受験エリートを幹部にずらりとそろえた組織であったことでも有名です。
以下からが引用です。


  ・・・、つまり強く「サイエンス」が支配している組織において、どの
  ように「アート」が取り扱われていたのか。オウム真理教における「ア
  ート」について、小説家の宮内勝典氏は著書『善悪の彼岸へ』の中で、
  次のように指摘しています。  

    オウム・シスターズの舞を見たとき、あまりの下手さに驚いた。素
    人以下のレベルだった。呆気にとられながら、これは笑って見過ご
    せない大切なことだ、という気がしてならなかった。オウムの記者
    会見のとき、背後に映しだされるマンダラがあまりにも稚拙すぎる
    ことが、無意識のままずっと心にひっかかっていたからだ。(中略
    )
     麻原彰晃の著作、オウム真理教のメディア表現に通底している特
    徴を端的に言えば、「美」がないといことに尽きるだろう。出家者
    たちの集う僧院であるはずのサティアンが、美意識などかけらもな
    い工場のような建物であったことを思い出して欲しい。
                      宮内勝典『善悪の彼岸へ』


   宮内氏は、極端な「美意識の欠如」と並んで、オウム真理教という組
  織が持つもう一つの特徴として「極端なシステム志向」を指摘します。


    小乗、大乗、金剛乗といった階層性が強調されるばかりで、アンダ
    ーラインを引いて受験勉強でもするような、きわめてシステマティ
    ックな教義である。その通りに修行すれば、高みへいける、一種の
    超人になれるという、通信教育のハウツー・ブックのようだ。(中
    略)
     偏差値教育しか受けてこなかった世代は、あれほど美意識や心性
    の欠落した麻原の本を読んで、なんら違和感もなく、階層性ばかり
    を強調する一見論理的な教義に同調してしまったのだ。後にオウム
    の信者たちと語りあって、かれらがまったくと言っていいほど文学
    書に親しんでいなかったことに気づかされた。かれらは「美」を知
    らない。仏教のなかに鳴り響いている音色を聴きとることができな
    い。言葉の微妙なニュアンスを汲みとり、真贋を見ぬいていく能力
    も、洞察力もなかった。


   宮内氏のこれらの指摘をまとめれば、オウム真理教という組織の特徴
  は、・・・・・・、アートとサイエンスのバランスが、極端にサイエン
  ス側に振れた組織であったと言い換えることができます。

以上、少し長々と引用しました。

受験的なサイエンス思考しかない、ということがつまりはオウム真理教やオウムなるものを生むということであり、アート思考における「美意識」こそが、サイエンス思考の暴走を止めることができたはずなのです。
例えば高野山奥の院のあの神聖な空気を知っていれば、声明のあの美しい旋律を知っていれば、空海の知的で力強くかつ柔らかくかつまた美しい書を知っていれば、「主観的な」「直感」で、あの稚拙な◎◎サティアンを見たとき、オウム「全体」の異常さを瞬時に捕らえられたはずなのです。


「美意識」。
何を美しいと思うか、何に美しさを見出すか、
これが「主観的」、「直感的」に物事「全体」をとらえる感覚の根幹となるでしょう。


「美意識」ということに話が及んだ時、
それがさも天性のものであり、一部の人に与えられた特権かのように誤解しがちですが、わたしはそうではないと考えています。
先ほど引用した本のタイトルをもう一度ご覧ください。

『世界のエリートはなぜ「美意識」を鍛えるのか?』

そうです。「美意識」は鍛えられるのです。

私が絵の見方を最初に本格的に習ったのは、
大学の「西洋美術史概説」という授業だったのですが、
その授業の先生が「美」の見分け方を身に付ける方法として教えてくださったのは、
「○○美術館には印象派の基準作が一番多く入っています。それはお教えしておきます。そこにできれば2週間に1回行ってください。学生証があれば無料で入れます。そこでキャプションも何も見ずに、絵を見ながら50分くらいかけて美術館を一周してください。半年で美意識が身に付きます。」
ということでした。

つまり、「名作」「基準作」と人類の歴史が価値付けて来た作品を見るだけ、それが展示された空間に通うだけ、それだけです。
ただしここで重要なポイントが1つだけあります。
それは、「人類の歴史が名作・基準作と価値付けて来た作品」を見ることです。
最初から周辺作ばかりを見ないこと、中心作を見ることです。
中心作がいかなるものかわかれば、周辺作の良さが見えてきます。

これが「美意識」の鍛え方、第一歩目です。

ただ、このやり方では時間がかかります。
半年くらいは連続して美術館に通わなくてはいけません。
しかも美術館で半年も同じ展示を続けていることはなかなか考えにくいです。

そこでもう少し時間を省略したければ、
私はこのようなやり方を推奨しています。

「人類の歴史が名作・基準作と価値付けて来た作品」を見ることに変わりはありませんが、自分一人で見に行くのではなく、その作品に心の底から感動している友人や先生とともに見に行く、ということです。そしてその友人にしゃべってもらってください、それも、知識や歴史ではなく、「このシャープなラインがやばい」とか「この静けさがたまらない」とか、主観的にしゃべらせてください。「なるほど!ここか!」とどんな解説よりも、その友人の言葉にならぬ興奮が、自分の感覚を拓かせてくれるでしょう。
私はその友人・先生役をいくらでも買って出ますので、お申し付けください(笑)。

そういう第一歩目があった上で、知識や解説が入ってくると、本当に美術・アートは面白くなってくるものなのです。

字数的には今回はこの辺りまでですね。
今回、『「アート思考」と「煎茶」考察②』とタイトルで言っておきながら、「煎茶」と打ったのはこれがはじめてです。
今回は、「アート思考」の要は「美」であること、「美意識」は鍛えられること、を述べてきました。

次回は「美意識」の鍛え方からもう一度話をはじめて、
「美意識」を鍛え方として注目されている「対話型鑑賞」というもの、
それをやるのが「煎茶」の場だということを書いていこうと思います。

今回はここまでです。
長々と読んでいただきありがとうございました。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?