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『約束のネバーランド』完結に寄せて ~ピーター・ラートリーの呪詛~

※ 本記事は『約束のネバーランド』全ストーリーネタバレを含みます

 2020年10月2日、『約束のネバーランド』最終巻が発売されました。

 2016年に連載開始した本作は、同年に連載開始した『鬼滅の刃』とともにジャンプを牽引。2020年夏に大団円を迎えました。本当に素晴らしい、グランドエンディングでした。

 エンディングに至るまで様々に見せ場はあったこの物語ですが、その完結に寄せて個人的にぜひとも書きとめておきたいことがあります。それは、この作品のいわゆるラスボス、すなわちピーター・ラートリーという男の人生、そしてその呪詛についてです。

 彼は食用人類を育てる鬼側に立つ人間であり、エマの大切な仲間の命も奪った、まさに「悪役」といえる存在です。そんな彼は物語の最終盤でついにエマと対峙し、エマと言葉を交わし、そして呪詛を残して自らの命を絶ちます。この、最終巻冒頭2話(第172話、第173話)にわたって描かれる2人の会話にこそ、この『約束のネバーランド』の神髄が詰まっている、そう私は感じるのです。
 
 その真髄とは何なのか。ピーター・ラートリーがエマに語った言葉は、何を意味し、何を私たちにもたらすのか。この記事で記録したいのは、そんなお話です。

 そんなピーター・ラートリーのお話をするためには、この『約束のネバーランド』がいかに最終盤の展開に至ったのか、まずはその歴史を振り返らなければなりません。そこからお話していきたいと思います。

1.  デッドロックにどう立ち向かうか

1-1.  デッドロック

 本作の巧みな点であり、エマたちを苦しめた要素は何か。それは、本作には「こいつを倒せば全部解決する」という存在がいなかったことです。

 例えば同時期に連載していた『鬼滅の刃』は、この点に限って言えば非常にシンプルな物語です。様々な鬼がいる中で、明確な「悪」として鬼舞辻無惨という男がいる。こいつが全部悪いからとにかくこいつを倒せばいい。『鬼滅の刃』はそういう構図のストーリーでした。

 一方、『約束のネバーランド』はそうではありません。序盤のGF農場脱出編では、とりあえず倒すべき存在として「ママ」がいます。しかし、ママたちは飼育者としての役割を鬼に強いられている存在に過ぎません。ママはどれだけ良心の呵責に捕らわれても、どれだけ苦しくても、自分が生き残るために、子供たちを飼育しなければならない立場にある。だから、ママたちを糾弾しても意味はなく、ママに子供を飼育させている、鬼を倒さなければならないのです。

 では鬼を倒せば全部うまくいくのかというと、話はそう単純でもありません。鬼は自らの楽しみのために人間を飼育しているわけではありません。鬼にとって、人間は鬼が鬼として生きるために必須の食糧なのです。鬼は、自らが食べたものと同じような形態に変化することができる生物です。ゆえに、人間を食べることで人間のような知性、感情、文明を持つに至った鬼は、人間を食べ続けないとその生き方を維持できないのです。そのような鬼を、同じく生きるために牛や豚を飼育している人間が糾弾することは、倫理的に正当性のある行為ではないのです。

 また、鬼を殺すことの理念的な難しさは、善悪という側面からも語られます。

 その代表例が、本作終盤で語られる、鬼に育てられた少女、アイシェのエピソードでしょう。彼女は食用人類として生まれましたが、ある鬼に拾われ、鬼によって育てられました。そして、鬼と父娘同然の関係を築くのですが、アイシェが鬼に捕らわれていると勘違いした人間たちが、その鬼を殺害、アイシェを「救助」するのです。
   
 このエピソードは、鬼の排除がいかに哲学的に難しい問題であるかを、よく表しています。鬼を「悪」と考え排除するのは簡単ですが、このアイシェのエピソードにおける「悪」は間違いなく、鬼を「悪」と決めつけ、アイシェを愛した鬼を理不尽に殺した人間のほうでしょう。

 このように『約束のネバーランド』は、「エマたちが生き残るには鬼を殺すしかないが、鬼を殺す正当性はない」という、デッドロックのような状態を作り出しているのです。

1-2.  「線引き」という手段

 鬼を倒さなければ人間は生き残れない。しかし、鬼を殺すことは必ずしも「善」ではなく、ゆえにただの暴力でしかない。では、人間はどうすればいいのでしょうか?

 一つ、手段が残されています。それは、善悪とか関係なしに、「自分が生き残る」ことを暴力行為の免罪符にしてしまうことです。
  
 鬼は、生きるために人間を食べるしかない。人間を食べられなくなったら、鬼は今の生き方を続けることができなってしまう。それはそうかもしれないが、そんなことはどうでもいいと切り捨ててしまう。自分たち人間が生き残ることが最大の利益なのであり、それを実現するためなら、いかなる犠牲を払ってもいいし、鬼が苦しんでも仕方ない。そう割り切ることさえできれば、人間は大手を振って鬼殺しができます。
   
 これを実践したのが、王都襲撃を敢行したノーマンであり、そして、「食用人類」という歴史を作ったユリウスです。ノーマンは自分たち人間が生き残るために、市民も含めた鬼の大量虐殺を試みます。ユリウスは自分たち人間の一部が生き残るために、残りの人間を「食用人類」に仕立て上げました。ともにその行為は性質上決して許されるものはないはずですが、「自分たちが生き残る」ためなら、決して悪人ではない彼らも、そのおぞましい行為に手を染めてしまうのです。

 そんなノーマンやユリウスの行為に必ず必要になるのは、「線引き」という行為です。「自分たち」が生き残るために「他人」を排除していいのであれば、当然ながら、その行為に先立つ判断として、「自分たち」と「他人」との峻別=「線引き」が必要になります。

 この峻別は、非常に恣意的に行われます。ノーマンは、「自分たち」を「人間全員」と定義します。一方でユリウスはノーマンと違って「自分たち」を「人間全員」とは定義せず、少なくともこれまでともに鬼と戦ってきた仲間の戦士たちを、「自分たち」から除外しました。この除外された人間はそのまま「食用人類」となり、その線引きは、そのまま「約束」によって生まれた、人間の世界と鬼の世界の境界線として具現化しているのです。

1-3.  「線引き」の主義的難点

 こうした恣意的な「線引き」を許容するならば、この『約束のネバーランド』は上記のデッドロックから逃れ、物語を動かすことができるのです。

 しかし、この「線引き」を本作序盤からずっと否定する者がこの作品にはいます。そう、エマです。

 エマはGF農場脱出編で、ずっと「孤児院から全員で脱出すること」に固執していました。一部の子供の犠牲を前提にして脱出の準備を進めていたレイに対して、エマはいつもの笑顔からは考えられないような表情で、こう言うのです。

 「その(レイの脱出の準備の)おかげで今皆で逃げられる」
 「でもそういう線引きもう二度としないでね」

 自分と他人の間に線を引き、「自分」の脱出のために「他人」を犠牲にできるレイを否定する。自分と他人は「線引き」できるような異なる存在ではなく、あくまで等しく扱われるべきである。ゆえに、自分が脱出するのであれば、他人も等しく脱出できるようにしなければならない。これが、本作の主人公、エマの哲学なんです。

 こうなると、この「線引き」を『約束のネバーランド』の答えにすることはできません。確かに「線引き」は、本作のデッドロックを崩す力がある。しかしその「線引き」というイデオロギーを、本作の主人公が初めから否定している。もっと言うならば、その「線引き」とは、上記のとおり「食用人類」という仕組みの根幹となっているイデオロギーであり、この作品が「食用人類の解放」を目指す物語である以上、「線引き」を物語の解決手段として採用するのは、致命的な自己矛盾になるわけです。

 だから、『約束のネバーランド』は、エマは、「線引き」とは違った解決策をもって、このデッドロックを崩さなければならないのです。

2.  エマの答え 

2-1.  それぞれの立場を差し引いたら

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 ではエマは、そのデッドロックをいかに突破するに至ったのでしょうか。

 第172話でついにピーター・ラートリーと対峙したエマは、ピーターに語ります。
  
 「もし鬼が人間を食べる生き物じゃなかったら… 人間と友達になってくれるかな」
 「もし私がラートリー家に生まれたら 食用児に何かできたかな」
 「もしあなたがGFに生まれたら 友達になれたのかな」
 「立場が違うから争って貶めて憎みあって でもそれぞれの立場を差し引いたら… そうやって考えたら 本当は皆憎み合わなくてもいいんじゃないかな」

 鬼は「人間を食べるという立場」にあるから、人間と対立してしまう。ラートリー家は「食用児を育てる立場」にあるから、食用児と対立してしまう。食用児は、「鬼に食べられる立場」にあるから、鬼、そしてラートリー家に抗う。鬼も食用児もピーターも、それぞれの「立場」があるから、他者と争っているのです。

 ではその「立場」というものをそれぞれから取り去ってみたら、何が残るのでしょうか。鬼が「人間を食べる立場」にあるのは、人間を食べることで生きるためです。ラートリー家が「食用児を育てる立場」にあるのは、食用児を鬼に供給して鬼の世界を安定させることで、人間の世界を守るためです。食用児が「鬼に食べられる立場」からの脱却を図るのは、他でもなく、生きるためです。

 そう、「立場」というものを鬼から、食用児から、ラートリー家から取り去ると、そこには「生きたい」、「大切な人を守りたい」という、純粋な願いだけが残るのです。それは尊重されるべきものであり、かつ、決して性質的に争いを内包するものではありません。
   
 であるのならば、鬼は、食用児は、ラートリー家は、本来争わなくてもいい存在なのです。彼らはそれぞれ、ただ生きるために、大切な人を守るために一生懸命なだけなのであり、そのことに一生懸命であること自体は、争いに結びつくものではないのですから。

 にもかかわらず、彼ら彼女らはそれぞれの「立場」があるばかりに、泥沼の争いに捕らわれている。だから私たちは他者と向き合うとき、他者の「立場」を見てはならないのです。

2-2.  「立場」=「意味」からの脱出劇

 こうしたエマの「立場を差し引いたら」の言葉とともに描かれるのは、私たちがこの現実世界で幾度となく目にしてきた光景です。いじめ、戦争、政治的暴動、貧困、黒人によるデモ、抑圧される女性、SNSによるネットリンチ、欧米で頻発した、コロナウイルスを理由としたアジア料理店への攻撃… 

 エマが知らないはずのこの現実世界の諸問題をここで描くということは、この現実世界にエマの言葉が刺さってしまうことを、本作が提示したということだと思います。特に、連載当時(2020年3月23日)はまだ生々しい話題だったコロナウイルスを少年誌に持ち出すことには、それなりの覚悟が必要だったのではないでしょうか。

 その意図を受けて、エマの「立場を差し引いたら」の言葉を、現実世界に即すように言い換えてみます。

 私たちは他者をみるとき、その主義、価値観、社会的地位、性別、人種、民族、歴史、国籍、帰属を参照してはならない。私たちは他者をみるとき、その他者という人そのもの、その人の立場の裏側にある思いを見ないといけないのです。そうすると、初めはその立場から敵に見えた他者は、実は私たちと同じような存在であることがわかってくる。立場や主義主張、帰属や文化が異なる他者も、その実体に目を凝らすと、「生きたい」、「親しい人を大切にしたい」、「他者に認めてもらいたい」といった思いを胸に、一生懸命生きているだけの存在なのです。

 しかしながら、これは言うは易く、行うは本当に難しいことです。

 エマのいう「立場」、言い換えると主義や性別、人種などは、本来は思想や生物学的特徴を分類する以上の意味は持たないものです。しかし、これらのカテゴリーは、時にそれ以上の「意味」を帯びます。黒人は危険だ、ユダヤ人はケチだ、女性は能力が低い、男性は粗暴だ、フェミニストは過激だ、中年男性はキモい、アジアはコロナで汚染されている、などなど… その例は枚挙にいとまがありません。

 そして、そうした「意味」を帯びたカテゴリーを参照して他者を見てしまうと、その「意味」が、そのまま当該他者の解釈に影響してしまうのです。黒人が何かをしていたら、それを危険行為とみなして発砲・銃殺してしまう。女性が職場にいたら、複雑な仕事をさせずお茶くみくらいしかさせない。ヨーロッパにあるアジア料理店が、コロナに汚染されているとして器物破損などの被害を受けてしまう、などなど…

 黒人の方は町を歩いていただけなのに、女性は世の中の役に立つ仕事をしようと思っただけなのに、アジア料理店はおいしい料理を出していただけなのに、みんな他の人と同じように一生懸命生きているだけなのに、不当な扱いを受けてしまう。全部、カテゴリーが帯びた「意味」による、他者解釈への侵食です。そしてこの侵食はカテゴリーに属する個人への否定・攻撃につながり、その否定・攻撃が、争いを呼ぶのです。

 これは考えてみればおかしな話です。主義や性別、人種というのは、私たち人類が便宜のために作り出した、ただの言葉、区分けにすぎません。しかし、その言葉は一人歩きしてあらぬ「意味」を帯び、その「意味」は逆に私たち人類を操り、争わせているわけです。別の言葉で言い表すならば、私たちは本来壁など必要のないところに壁を立てて、その壁によって、自分で争いの火種を作っているのです。

 だから、エマは叫ぶのです。エマの言う「立場」が帯びる「意味」から、私たちは脱出しなければならない。これまで虐げられてきた苦しみ、憎しみを克服して、鬼の、ラートリー家の「立場」の奥にある、その思いを見据えないといけないのです。この『約束のネバーランド』という名の脱出劇は、GF農場からの脱出では完結しない。「立場」という名の枷から脱出することで、この脱出劇は本当の完結を迎えるのです。

 言い換えるならば、私たちは、本来必要のないところに築かれた世界を分断する壁を、打ち壊さないといけないのです。その壁を打ち壊すことで私たちは、これまで自分と別物だと思っていた他者が、私たちと同じ思いを抱えた存在であることを思い出すことができる。それゆえか、「約束」を司る鬼はこう言うのです(第140話)。

「せかいにはかべなんてない」
「かれがせかいでせかいがかれ」

かくしてエマたちは争いのデッドロックを、争いの意義自体を否定することで、見事克服するのです。

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3.  ピーター・ラートリーの呪詛

3-1.  ピーター・ラートリーの生きる意味

 第172話がエマのターンであるならば、第173話はピーターのターンです。

 「立場」が帯びる「意味」を否定することで、争いの機序自体を消滅させる。そのエマの素晴らしい主張は、皮肉にもピーター・ラートリーという男の人生の意味を全否定します。

 ピーターは人間の世界と鬼の世界の調停者という役割に、誇りを感じていました。仮に鬼世界で食糧となる人間がいなくなってしまったら、鬼たちは死にものぐるいで人間の世界に攻め込んでくることでしょう。そうならないために、食用児の供給システムを安定させ、人間の世界を守護する。自らの兄を殺してまでその役割を全うするピーターにとって、その役割はもはや最大の「生きる意味」であったわけです。

 しかし、エマはそんなピーターに対して、「もういいんだよ」とささやきかけるのです。ピーターはその役割=「立場」のせいで、人間の世界の行方を担わされている。兄を失うという苦しみと向き合わざるを得なくなる。本来争わなくてもいいはずの人たち(食用児)との争いを強いられている。だから、もうその役割から自由になっていいんだと。そうすればこれまでの苦しみからは解放されるし、エマたちといっしょに生きることができると。そうエマは語りかけるのです。

 そのエマの言葉は、ピーターの「生きる意味」を瓦解させます。これまで誇りと感じていた役割、兄を殺してまで守り抜いてきた「立場」は、守り抜くべきものなどではなく、むしろ早々に捨てたほうがいい「枷」でしかなかったのか? であるのならば、なぜ自分は兄を殺したのか? 自分は、価値のないもののために、全てを捧げていたのではないか?
 
 そこに思いが至ったピーターは、エマの呼びかけも空しく自らの命を絶ちます。エマの差し伸べる手は、もはやピーターの生き方の否定にしかならなかったのです。

3-2.  ピーター・ラートリーの呪詛

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 こうして自らの人生の理念が崩れ去ったことを悟ったピーターは、エマにこう語りかけます。

 「鬼などまだ可愛いものだぞ」

 「鬼が食用児にしてきたことなんて 人間は人間同士で遥か昔から繰り返してきている」

 「そう…人間は人間を 食わないのに」

 エマの主張は争いの否定です。人は本来争う必要なんてないのに、「立場」に囚われるばかりに争ってしまう。だから、「立場」から解放されることで、人は共存できるんだ、そう主張するわけです。

 それに対し、ピーターは捨て台詞のように「やれるもんならやってみろ」と言って自らの命を絶ちます。人間はそんなに簡単に争いを脱却できない、エマの主張は所詮理想論である。そんな呪詛を遺して彼はこの物語から退場するのです。
   
 このピーターのこの呪詛は、エマに対する当てつけ、彼の負け惜しみ以上の、ある重大な意味を持ちます。結論から言いましょう。それは、彼の呪詛の根拠として人間世界の歴史を引合いに出すことで、ピーターが本作のラスボスの位置に、私たち読者を召喚してしまうということです。これはどういうことか。

 ピーターが上記のセリフを吐くシーンで描かれるのは、おそらくピーターのいる人間の世界でこれまで行われてきたこと。ホロコーストのような大量虐殺、人身・臓器売買、魔女狩り、踏み絵を思わせるシーンが描かれていますが、どれもこれも、私たちの現実世界で実際に起こってきた争いの歴史です。
   
 そう、ピーターはまさに、この私たちのいる現実世界を代表する人物なのです。その人物がその世界の歴史を引合いに出して、エマがたどり着いた答えを批判する。そして、ピーターはこの物語の舞台から姿を消す。そうすると、この物語に残される構図は何か。それは、エマたちの答えと、その反証としての「私たちの現実世界」との対立なのです。

 これまで私たちは、主人公のエマたちに寄り添って、この理不尽な世界をどう変えていくかを考えてきました。しかし、そのエマが立ち向かってきた敵=理不尽な世界とは、私たちがこれまでの歴史で作ってきた世界そのものだったのです。私たちは主人公に寄り添う存在ではなく、この物語の最後の最後でエマたちに立ちはだかる、本当のラスボスだったわけです。

 先述のとおりエマの語りのシーンで現実世界の諸問題が描かれたのも、ここまで議論を進めると合点がいきます。エマの語りとともに描かれていたものは、エマが知らずに相対した、「私たちの現実世界」というラスボスの姿だったのです。

3-3.  エマの戦いの行方と『約束のネバーランド』の本懐

 このエマと私たちの現実世界との戦いは、決着がつかないまま本作は完結を迎えます。というのも、本作が一応のハッピーエンドを迎えられたのは、「邪血」という存在、そして人間の世界で2020年代から2030年代にかけて起こったという世界大戦があったからです。

 「鬼は人間を食べないと生きていけない」という条件、これがこの作品における争いの克服を難しくしている一番の原因だったわけですが、鬼王家を打倒し、「邪血」の存在を広めたことでこの問題は解決されました。また、エマたちが人間の世界に受け入れられたのは、人間世界が世界大戦という悲劇を通して、「自分たちさえよければいいなんてダメだ」、「自分たちが助かるために、みんなで助からなければならないのだ」、というエマ的結論に既にたどり着いていたからです。この2つの条件のおかげで、エマたちはハッピーエンドを迎えられたわけです。

 しかし、この世界は邪血のような、争いを解決するわかりやすい特効薬はありません。また、この世界は幸か不幸か第三次世界大戦は起こっておらず、むしろ分断がますます進んでいっている状況にある。エマの勝利の条件は、この現実世界ではそろっていないのです。エマは、この現実世界に対しては、私たちに対しては、敗北してしまいかねないのです。

 では、私たちはどうするべきなのでしょうか?

 私たちはこの『約束のネバーランド』を読み、エマの戦いを応援してきました。そしてその結果、エマと対立しているのは、実は他でもなく私たちであるということがわかってしまった。この読者に対する「ラスボス指名」こそ、本作がこのストーリーを通して研ぎに研ぎあげ、最後の最後で私たち読者の心を突き刺す必殺の剣だったのです。

 この剣を繰り出された私たちは、考えることになります。私たちはこのまま「ラスボス」であっていいのか。エマの前に立ちはだかるのではなく、本当にエマに寄り添える存在に、変わらなければならないのではないか。

 そう考え、行動を起こして、世界を少しでも変えたとき、エマの戦いは確かに終わり、この『約束のネバーランド』は、ついにその本懐を遂げることになるのではないか。私はそう考えるのです。

(おわり)

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