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【中世⑧】『チ。-地球の運動について-』~人間は「宗教から科学へと進歩している」のか?~

※ 本記事は記事シリーズ「あのマンガ、世界史でいうとどのへん?」の記事です。
※ サムネは『チ。-地球の運動について-』1巻表紙より。

 今回で中世の章は最後となります。

 本記事シリーズはある特定のマンガをとりあげ、そのマンガが舞台とする時代を紹介する構成をとっています。ですのである特定の時代の出来事を紹介しやすい形式にはなっているのですが、一方で、特定の時代でなく、どの時代にも共通して起こっていた現象や文化について説明するには少し向かない内容になっています。
 しかしながら、そうした文化現象の中で、中世ヨーロッパを語るにどうしても外せないものが一つありますので、中世の記事の締めくくりとしてとりあげさせてください。
 その文化現象とは、すなわちキリスト教です。


1.キリスト教はなぜ広まったのか

 キリスト教が現代の欧米世界で最も広まっている宗教であるというのは論を待たないでしょう。しかし、そもそもキリスト教はいつどこで生まれ、どのようにしてそのような支配的な地位を獲得したのでしょうか?

 キリスト教を生んだのは、現代のパレスチナの地域出身のイエスという男です(彼の生まれた年が西暦元年ということになっていますが、実際にはもう数年前の生まれだったようです)。彼はユダヤ教信者の陰謀により道半ばで処刑されてしまうのですが、彼が説いた教えは彼の死後も弟子の布教活動を通して広まり、やがては当時の覇権国家である古代ローマ帝国各地に深く根を下ろすに至ります。当初帝国はこれを弾圧するものの、やがて帝国支配の安定化に宗教を利用する判断に至りこれを公認。さらにはその後キリスト教以外の信仰を禁じる国教化に踏み切ります。こうしてキリスト教は「ヨーロッパの宗教」としての地位の基礎を固めていくのです。
 しかしその後まもなくしてこのローマ帝国が東西分裂したことで、キリスト教会組織もまた東西分裂を迫られることになってしまいます。東の帝国はビザンツ帝国として長く存続したので、東側の教会はその下で「正教会」として発展。一方の西側は帝国が早々に滅亡してしまいますので東側のようにはいかなかったのですが、やがて西側教会の中心だったローマ=カトリック教会がフランク王国『ヴィンランド・サガ』の記事をご参照)に接近。西ヨーロッパ統一を実現したフランクのカール大帝に、西ローマ帝国の後継たる「ローマ皇帝」の位を与えて教会の後ろ盾となってもらい、当教会は「西ヨーロッパの正統宗教組織」としての権威を再び手にするのです。

 一方で、こうしたお上の政治的なやりとりだけで宗教が民衆に根を下ろすわけではなく、キリスト教の定着においては、教会組織による草の根活動の寄与するところも大きいところでした。諸侯の支配や社会の混乱で民衆が苦しむ中、多数の教会や修道院が貧民の保護、仲裁による戦争の抑止、さらには開墾活動のサポートを行い、民衆の支持を得ます。
 また、学問・文化においてもインテリ階級としての聖職者がその担い手となり、「宗教のための」学問、美術、音楽が発展。特に学問においては「神学」が高位の学問とされ、神の存在と、この現実世界の存在や自然現象をいかに統一的な理論で説明するか、という試みが重ねられます。今では「神」と「自然」は非科学的なもの/科学的なものとして区別され、化学や物理学、生物学の理論で「神」を説明するというのは基本的に考えられません。しかし、当時は「神」なしでは自然は説明できないものとされ、両者を区別する発想にはならなかったのです。それほどまでに、「神」というのは当時の人々の価値観の拠り所だったのだと思います。

 しかし、どれほど崇高な理念・組織も経年劣化は免れないもので、中世初期のうちから聖職者の贅沢、妻帯などの腐敗が進行します。上記の教会の草の根活動はこうした腐敗に対する改革の意味もあったのですが、こうした努力も虚しく、15世紀初頭ごろには異端とされたキリスト教の一派が軍事的な反乱(フス戦争。大西巷一先生作『乙女戦争』はこの戦争をモチーフにしています。)を起こす等、その権威は徐々に揺らぎを見せ始めることになっていくのです。

2.『チ。-地球の運動について-』が描く広義の「宗教」と歴史観

 このような文脈をベースに中世末期の人々のある営為を描いたのが、魚豊先生作『チ。-地球の運動について-』です。題材の特殊さにかかわらず、「マンガ大賞2021」や「このマンガがすごい!2022」双方で2位を獲得するなど異例の大ヒットとなっており、読まれている方も多いのではないでしょうか。

 本作の物語は、学校で優秀な成績を修めている、斜に構えた性格の少年ラファウが、釈放されたあるキリスト教異端者(本作は作中で「C教」と呼んでいるのですが、明らかにキリスト教を指しますので本記事ではそう呼称させてください)と出会うところから始まります。ラファウは異端者の脅迫を受けて彼の天文学研究に協力させられるようになるのですが、その過程で、この世界は当時一般的に言われていたように地球を中心に天体が動いている(天動説)のではなく、太陽を中心に地球やその他の惑星が動いている、という地動説に触れます。そして、当時支配的だった天動説よりも、各惑星の軌跡を遥かに統一的に、シンプルに描ける地動説の美しさに惹かれるようになるのです。
 一方キリスト教の教義からすると、神の創造したこの地球を宇宙の中心に据える天動説のほうが自然であり、教会は地動説を異端として扱っていました。したがって、王道の学問である神学を優秀に修め、世間体良く人生をこなそうとしていたラファウからすると、地動説の研究に身を投じて異端の危険を冒すのは愚か以外の何物でもありません。それでも、ラファウは地動説の魅力に逆らうことができず、その研究に没頭するようになります。そして彼は教会の異端審問を受け、若くして命を落とすことになるのです。
 しかし、これで話は終わりません。ラファウは死の前に研究成果をある場所に隠しており、やがてその研究成果を偶然発見した者がまた地動説にどうしようもなく魅了されることで、人知れず研究は続いていくのです。本作は全8巻の物語の中でこの研究の受継を2度描いており、これにより約半世紀の期間を跨ぐおおよそ3章構成の作品となっています。

 本作はその物語を通して何を描いているのか。一見してまず考えられるのは、「人間の知性による宗教の克服」でしょう。
 キリスト教はその権威を振りかざし、何ら論理的な根拠もない「神が創造したこの地が世界の中心のはずだから」という理由で人々の科学研究を抑圧している。しかし人の知性はそのような不合理な迫害に負けるものではなく、世代を重ねて科学を発展させることで、徐々に宗教という不合理な権威を克服していった・・・。そのようなストーリーは「人類の進歩の歴史」として受け入れやすいものですし、本作もそうしたイメージに沿った物語を提示しているようにも見えます。

 しかしこの作品の面白いところは、そうした一般的な「人類の進歩」のイメージを辿るように見せかけて、実はそこから少しずれたテーマ性を徐々に表出させていくところだと思います。ラファウが地動説に惹かれたのは、もちろん「知性」によるところもありますが、彼は地動説を語るとき、天動説では不規則に描かれていた惑星の軌跡が、地動説によると全て太陽を中心とした円形に収まることの「美しさ」、そしてその「感動」を強調するのです。また、ラファウから研究を受け継いだ第2章の登場人物の一人は、科学研究において特定の理論を妄信することの不適切さを自ら指摘した上でなお、自分は「地動説を信仰している」と言い放ちます。彼らは地動説を「科学的に正しいから」支持するだけではなくて、地動説が「美しいから」、それを「信じている」のです。
 確かに「知性」「理性」だけでは、人は異端審問による死の危険を冒してまで研究に身を投じるような判断には至らないでしょう。その「信じる」気持ち、あるいは「感動」こそが、死の危険にもかかわらず彼らを研究へと突き動かすのです。しかしながら、彼ら彼女らを突き動かしたその「信じる」気持ち、あるいは「感動」というものには合理的・科学的な根拠があるわけではなく、それらは彼らの情動、あるいは思い込みでしかない。であるのならば、彼らを強く突き動かしていたものは「知性」や「理性」ではなく、むしろ本作が克服しようとしたはずの「宗教」に近いものではないでしょうか?

 この問題に一定の回答を提示するのが本作第3章です。第3章では、やはりこの地動説を世に広めるべく、宗教関係者に対する殺人も辞さない人物が登場します。彼女は自身の営為が必ずしも理性的なものでなく、地動説に対する妄信による狂気でしかない、という可能性を自ら認めます。しかし彼女はその上で、自身の活動をやめようとはしません。
 それはなぜか。なぜなら、彼女はそうした個々人の「信念」による活動の積み重ねが、最終的に「より善い世界の実現」につながると「信じて」いるからです。確かに、彼女の活動には間違いがあるのかもしれない。だから、いつか別のXなる者が、そのXにとっての「信念」に基づいて彼女の活動を止めるときが来るだろう。しかし、それによる科学の衰退を憂えたまた別のYなる者が彼女の活動を継ぎ、しかしかつてXに批判された部分は改善を図ることで、結果的により善い運動が実現することになるかもしれない。
 そして、そのような掛け合いを積み重ねていくことで、この世界が少しずつ正しいものに、善なるものになっていくのだとすれば。「知性」や「科学」が発展していくのだとすれば。むしろ人は、自らの信念に、信仰に基づいて生きてよいのではないか。そして、そのような「信念」「信仰」の積み重ねによる「善」への壮大なにじり寄りこそが、「人類の歴史」というものの正体なのではないか。そう、本作は主張するのです。

 私は個人的にこの『チ。』の考え方が好きです。私たちは基本的に自分のことを正しいと思っているけれども、それは往々にして自分の考え方の中での正しさであって、他人の考え方に立ってみると、私たちの行動はむしろ誤って見えることがある。でも、それでいいんだと。むしろそういう他人と出会い、自分の考え方を見つめ直して、自分が改められるところは改めていく。そうすることで、きっと物事はいい方向に徐々に進んでいくのだと。また、あなたの人生において、あなたは最終的に自らの望むものを手にすることができないかもしれない。でも、あなたの信念を生き抜いたのなら、それはこの壮大な歴史の積み重ねの一つになるのだから、その人生は決して無駄ではなく、むしろ意義あるものなのだと。そういうことを本作は言っているのです。
 それは、私たちは容易に絶対的な正しさを得ることなどできない、という謙虚さを思い起こさせてくれるものであると同時に、そんなちっぽけな存在である私たちが、ちっぽけな視野の中で一所懸命に生きることに対する祝福なのです。

 また、そんな『チ。』の哲学は、まさに「歴史観」とも呼べるものではないでしょうか。
 考え方の異なる人類が互いにぶつかり、己を問い直し、より次元の高い結論を見出すことで、人類は前に進んでいく。時にその衝突は戦争のような悲劇を招くことがあるけれども、より長いスパンで見れば、人類は少しずつ「善」に近づいている。そこには「宗教」→「科学」、あるいは「信仰」→「理性」といったわかりやすい二項対立と一方通行の進歩があるわけではなくて、清濁飲み込んだ一進一退によって、この世界はすこしずつ善い世界になっていく。そういう「歴史」の意義を、本作は提案しているのだと思います。

 思えばこの記事シリーズの「中世」の章で挙げた作品は、「歴史マンガ」でありつつ、「歴史」自体の意味を問うようなものが多かったように思います。歴史の中に現代との共通点を見出し、歴史が今を生きる私たちの背中を押してくれることを示した『アンナ・コムネナ』。明るい未来のためには、現代の礎となった過去の経緯を参照しなければならない、そんな命題を壮大な架空の歴史の描出によって提示する『図書館の大魔術師』。また、こうした効用を持つ歴史の担い手としての「文字」の偉大さを説いた『シュトヘル』。きっと「歴史もの」の創作物を描くということは、「そもそも歴史を振り返ることにはどのような意味があるのか?」「歴史は私たちに何をもたらしてくれるのか?」という問いを、創作物の作家に否応なく提示するのだと思います。だから「歴史もの」では往々にして、その作家がその思考の上に練り上げた歴史観が、あるいはその歴史を担ってきた「人類」という存在の意味に対する哲学が、たまらず表出してくるのです。
 そんな密度の濃い哲学に触れて、その作品と一緒に、「私たちとは、人類とは何なのだろう?」と問うてみること。それもまた、「歴史もの」というジャンルのたまらない魅力の一つなのではないでしょうか。

3.近代の章について

 本記事シリーズは、次回の記事からいよいよ近代に入ります。

 長い中世を終えたヨーロッパ各国は、王権を中心に国力を伸ばし、ついに古代ローマ時代以来の海外進出を開始します。一方のアジアでも、極東では依然中国がその盟主として君臨し、西アジアでは強大なイスラーム系帝国、オスマン帝国の治世が続きます。しかし世界の天秤は徐々にヨーロッパへと傾いていき、やがては現代にも大きな禍根を各地に残す、凄惨な征服戦争が始まっていきます。そんな時代を経ても、「中世」を扱った様々な作品が提示した「歴史」へのポジティブなイメージは、果たして効力を持つのでしょうか。

 そんなことを考えながら、近代の世界を見ていきましょう。近代はとりあげる作品が非常に多くなりますので、18世紀末にフランスで勃発した重大な事件を切れ目とし、前半・後半の2部構成でお送りします。
 まずは前半。近世の幕開けの象徴である「ルネサンス」の紹介からお話を始めましょう。

次回:【近世・前①】『アルテ』~「近世」の始まりとしてのルネサンス~


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