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信条について

遅くなりましたが、あけましておめでとうございます。本年もよろしくお願いします。更新が滞ってしまいましたが、2017年の第一回は信条について書いてみたいと思います。

私、Isaacはとくに信仰している宗教はありません。しかし実家には仏壇があり、お盆にはお坊さんが先祖の供養に家に来て「何妙法蓮華経」とお経を唱えます。また、お墓参りも行います。しかしながら仏教を信心深く信仰しているかというと、特段そういったわけではありませが生活の身近にあります。神社仏閣で初詣やおみくじ引く私のような人が日本の大多数なのではないでしょうか。(私にとって初詣でおみくじを引くのは恒例行事です)

日本では憲法二十条では信条の自由について定められています。

日本国憲法 第二十条

信教の自由は、何人に対してもこれを保障する。いかなる宗教団体も、国から特権を受け、又は政治上の権力を行使してはならない。何人も、宗教上の行為、祝典、儀式又は行事に参加することを強制されない。国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない。

【宗教ってなんだろう】

私は宗教を否定することもありませんし、肯定することもありません。私は幼い頃、母の影響(教育?)でキリスト教の教えを刷り込ませれていた時期がありました。今考えるとお菓子がもらえたので喜んで聖書の読んでいたのでしょう。(当時年配のおばさんからキリスト教について学んでいました)現在では宗教の勧誘を受けた際は「私は私を信じているので結構です。言うなれば『俺教です』」と答えています。人は自身の預かりしない人智を超えた物事の巡り合わせに、神の存在を感じること言うことがあります。そうやって訳のわからないことが起きた時に自身に起こった事象を落とし込むことができます。なるほど自身が起こした事もそうして神や御仏の起こした奇跡として当てはめることは容易だなと考えることができます。(余談ですが私の考えでは人は自分の理解できないものに対して恐怖心を覚える為、○○というカテゴライズをしてしまうことも多々あると思います)

信心深いことは悪い事ではないと思います。昔は宗教が法律として機能していました。現在も宗教のしきたりというルールの元、生活されている方も多くいるでしょう。ルールに忠実なのはある程度秩序が生まれるので自分で仕組み考えることなく生きていけたのかなと思います。そして皆が同じ宗教(ルール)ではないのでいささか争いの種になります。私の場合は『俺教』となるので私が是とすることがルールとなり、それが私のルールとなるのです。(このままの言葉だと自分勝手と受け取る方もいらっしゃるかと思いますが、私は他人の考えを肯定しますし、多様な考えがあってよいと思っています)自分がルールと考えるので既存の仕組みに疑問を持つ事もままあります。神を八百万の神として自然を愛でることはできますが、お金を払わないと加護をしてくれないものを信じるのは私には理解できません。お金は汚いものでもきれいなもでなく、ただの代替用のツールです。神仏として崇められるありがたいモノが人の作ったツールをもらって喜ぶのかと考えるといささか滑稽のように思えます。

私は私、あなたはあなたという事で私は私自身を信じ、そして人々を信じ2017年も邁進してまいりたいと思います。あとまだ初詣に行っていないので近々お参りしようかな~と思います。

【今日の一言】

愚者だけが自分の経験から学ぶと信じている。私はむしろ、最初から自分の誤りを避けるため、他人の経験から学ぶのを好む。

Nur ein Idiot glaubt, aus den eigenen Erfahrungen zu lernen. Ich ziehe es vor, aus den Erfahrungen anderer zu lernen, um von vorneherein eigene Fehler zu vermeiden.

オットー・ビスマルク

・・・と、ここで時間がなくなってしまいました。書きたいことが収まりきらず、新年早々まとまりのない記事となってしまいました。また勉強不足の箇所も多々あり気分を悪くされた方がいらしたならば申し訳ありません。宗教と歴史(この結びつきは強い)、文化背景について勉強するととても面白いですね。今年はそのことについても勉強したいと考えています。

今回は以上となります。最後までお読み頂きありがとうございます。

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Isaac

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