救世主が絶対に現れないワケ
救世主伝説、大好きでした。
大変な時代、救世主でも現れて、悪い奴らをチャチャーっと片付けてくれたら、どんなにありがたいことでしょう。眼前に広がる世界が酷ければ酷いほど、そう願いたくなる気持ちは分かります。
でも、救世主なんて現れません。
救世主なんて存在がいてしまったら、人々はそれに頼ってしまいます。結果、他人任せの生き方となり、他人のせいにする生き方となり、そういうことがまかり通る社会ができあがってしまいます。
もっと踏み込んでいえば、そうやって多くの人々からの期待を背負った救世主が、コロッと寝返ったり、利用されたりしてしまったら、大量の人々が窮地に追い込まれることになります。そうなったら、もはや救世主は救世主ではなく、人々を陥れる悪魔としての役割を演じることになるでしょう。
結局、本質的に他人任せで、ぶら下がり根性を許してしまうような救世主の存在は、真に人類のためにはならないということです。
そして、これまでの人類の歴史を振り返ってみると、長らくそういう時代が続いてきました。だから今、こんなに酷い状況になっているとも言えます。
そのことは、今の世界宗教をみてもあきらかです。
さまざまな宗教で、救世主やメシアの存在が謳われたりします。一方で、それら宗教が厄介なのは、そういう存在があることによって、他人任せで無責任な人々を量産してしまう点です。
もちろん、宗教にも役割がありました。
弱者救済という意味では、歴史的に大きな役割を果たしてきたと言えます。目に見えない真理について探求する側面からいっても、大きな貢献をしてきたと考えられます。
しかし、そこに本質があると思ったらいけません。こんなものは、人類が真に目覚めるまでの補助輪でしかないと考えるべきです。そろそろ、こんなものがなくても、生きていけるようにならなくてはならないはずです。
「どうせ人間、一人で生きられないんだから、他人に頼るほかないじゃん?他人任せがどうしていけないんだ?」
そんな疑問もあるかもしれません。それに対する答えは、他人任せの人は感謝しないからです。そして、怒るからです。
救世主なんかを一切考慮せず、他人任せにならず、すべてを自分のこととして捉えている人は、問題の大小にかかわらず、すべて「自分がやらなければいけないこと」と考えます。
当然、できないことだらけです。
すると、それらの問題が少しでも解決しただけで、「あー、助かった。ありがとう」ということになります。心の底から感謝できてしまうわけです。
その感謝を周りの人にも表現していくことで、自ずと人が集まります。人生が好転していくのです。
仮にそれがうまくいかなくても、「自分が頑張れてないんだから、できなくてもしょうがない」という気持ちになれます。そこに怒るなどという感情は、一切生まれません。
しかし、他人任せでぶら下がり根性のある人は、そうではありません。
他人に寄りかかってしまうので、自分では立てないくせに、それがあることを当たり前だと思い込んでしまいます。他人任せのぶら下がり根性が根付いてしまっているので、そこにありがたみを感じることもありません。
そして、うまくいかなくなると、とたんに怒りだすわけです。
「お前がやってくれるはずじゃなかったのか!」
「なんでできないんだ?!ふざけるな!」
「お前がちゃんとやらないから、おかしなことになったじゃないか」
まったく感謝できないのです。
これは他人任せにしてしまっているからであり、救世主のような存在を求めてしまう精神性を抱える人の問題でもあります。
政府を信じてた?
マスコミを信じてた?
社会の仕組みを信じてた?
でも、それらが自分が思い描いていたモノでなかったときにどうなるか?ということです。
それだって、救世主を求める精神性と何ら変わりません。そんなものに頼っている、何とかしてくれると信じ込んでしまうのは、非常に危険なのです。
感謝、とても大事です。
救世主に感謝する????
いやいや、そんなものに期待するだけ無駄です。そんな万能な存在が、あるわけがありません。
むしろ、そんな期待した救世主に裏切られて、怒りを増幅するだけになるでしょう。そういう意味では、救世主なんて人類の精神性を高めていくうえでは、邪魔な存在でしかないのです。
そんなものに頼らず、まずはすべてを自分のことと考えていきましょう。自分で何とかしようと思ってみましょう。
救世主なんて要りません。いや、現れません。
そう思えたら、自ずと感謝の心が湧いてくるはずです。そうやって、救世主を排除すればするほど、人類が進む未来は、真に明るく拓けてくるのだろうと思います。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?