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横 濱 消 息 附記

 横 濱 消 息

     品 川  力

▲いつも朝九時ころに、アイスク
リームに取掛る、全速力で、十五
分ほどやると、シャツはもうびつ
しょりになる。疲れきつて、ハン
ドルの廻轉が重くなつたころにな
ると、その音を聞きつけて、隣り
のレストランのコックをやつてゐ
る石井高藏君は、自分の仕事をや
めて手傳ひに來て呉れる。
▲こうして汗だくだくで出來上る
アイスクリームが二十錢とは、ば
かに安いやうな氣がしてしやうが
ない。
▲これはいい運動になる。このあ
とでソーダ水のちびりちびりとき
たら、とても何んともいへぬいい
氣分だ。禁酒禁煙の僕には、これ
が一番よささうなのでよくひつか
ける。
▲氣の遠くなるやうな、ブレード
プリンだの、シュークリームは、
フランス料理とカクテルの熱心な
研究者である石井君の餘技になる
ので、時々御馳走になる。
▲最近では彼によつて、マカロニ
といふものを始めて味つた。これ
は上品で頗る美味いものだ。東京
に歸つたらやつてみたいと思つて
ゐる。
▲こちらでは喋ることを大分練習
したから、こんど歸つても貴君に
通譯の勞を煩はさずに濟むだらう
と思ふ。
▲このごろは糞落着に落着いてゐ
るのでうまく言葉が出る。客が四
五人はいつて來たつてうろたへな
い。それでゐて、仕事の方はそん
なに遅くない。
▲こちらではもう話が分つてゐる
のに、主人マスターの「つまり、とにかく、
なんだ、あれだ、あれだ」と、これ
をやられると、可笑しくてしやう
がない。
 僕は枕言葉を出さなくとも話が
できるんだからありがたい。こち
らにきてから未だ甞て、「發音が出
ません」と言つたことがない。
▲恐ろしく人相の惡るい外國人で
奇妙な舞踏病に罹つてゐるのが、
よく這入つてくるので、主人の妻
君は恐がつて、「ツトムさん、あり
ませんと斷りなさいよ」と言ふ。
僕は平氣なものでいつも涼しい顔
して相手になつてゐる。この男は
いつも新聞紙をポケットにつめて
そして絕江ず喰つて歩るいてゐる
▲この奴がくると、新聞をちぎつ
てしやうがない。そして凄い眼を
ギロつかせてゐるので、僕もまけ
ずに大きな眼をギロ/\させてゐ
る。うつかりしてをらうものなら
カステラなんぞ摘んで知らぬ顔し
て出てゆくことがあるんださうだ
▲それから、これはあんまり身に
餘る光榮なんで話すのは氣まりが
惡いやうだ。それは僕が三十女の
亭主を思はれたことだ。
▲それといふのは、病院で娘を看
護してゐる母親のとこに、僕がい
つも牛乳を持つて行つたもんだか
らほかの病室の妻君連に、優しく
て女房孝行で、いい亭主だといふ
ので、大分羨やましがられたもの
らしい。
▲それに何んのわだかまりの無い
話振りは、随分仲のいい夫婦だと
いふので、妻君連をして氣をもま
せたものらしい。
▲僕が娘の(娘といつても御心配
を煩はす迄もなくまだ四歳である
)側で、雜誌など讀んで聞かせて
ゐるところは、どう見てもいいパ
パに見江る。
▲「ツトムさんは餘程老けて見江
るんですね。病院の人は、あれは
あなたのだんなですかと、きくん
ですよ」ときたもんだ。これには僕
はガッカリしてしまつて。こんな
浮名を流してゐる最中に娘が退院
して呉れたので、救はれたやうな
氣分だ。
▲二十二の靑年を捉へて三十二位
ですかには、いささか面喰つて了
つた。(註、つまり女房のある男と
見られたわけだ)あとから考へる
と、女房のあることにしておけば
よかつたと思つてゐる。
▲扨て、このほかにも未だエロチ
ックな話があるんだが、それは東
京に歸たらゆつくり語ることに
する。
▲きのふ眞夜中に叩き起されたの
で今日は眼がパチパチする、侵入
者があつたんだ。主人マスターの友達とい
ふ四十男がへんな女を連れてきや
がつて、僕の蒲團の中に二人一緒
すむといふので、眠い眼をこ
すりこすり下におりて寢た。朝早
く起きて見ると、奴等は床もあげ
ずに―影だにない。あるのは女の
箱枕が、浮氣男の枕と並んでゐる
だけだ。ふざけやがつて――あと
になつて口惜しがつてもしやうが
ないかも知れぬが、とにかくすこ
しは慎んで貰ひたいものだ。
▲さあ、あんまり長くなると讀む
方で厭になるだらうから、これで
やめる。
 石井君から借りた西洋近世哲學
史は讀了したので、いまは、貴君
の好意になつたロンブロゾオに讀
み耽つてゐる。 (八月廿四日夜)

附記――以上の一篇は、力君の手簡で

 あるが、もともと、公開の意志を持つ

 て書いたものださうだから敢て公表

 するわけである。讀者諸君はこの奇

 妙なる、一靑年の生活記錄に强調さ

 れたるユーモアに失笑すると共に、

 その紙背にひそむ、厭生家の慧眼を

 も觀破して欲しいものである。東洋

 のチエスタアトンをもつて自認する

 わが品川力君のために敢て蛇足を附

 する所以である。

 (月ぐさの押花を眺め、月明るき良

 夜、ひたすらにひとを戀す)

(菊池與志夫)


(越後タイムス 大正十四年九月六日 
                 第七百十八號 五面より)

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      ソフィアセンター 柏崎市立図書館 所蔵

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