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雲 (二)


  雲 ――續稿

  きくち・よしを


 或る月の明るい秋の晩の事です

 私はまだその頃、街の方の家に

老とつた母と八つになる妹と三人

で暮らしてゐたのですが、私が廿

一のときに父を失つてからといふ

ものは、生れつき寂しいものにば

かり心をひかれるたちの私は一層

ぬぐはれない哀しみやこの世に生

きることの果敢なさを覺江て、幸

ひにも父がのこして行つて呉れた

小さな家と、わづかばかりの遺産

とによつて、別にこれといふ生活

のための仕事もしないで、晝は好

きな本などに讀み耽つたり、夜に

なつても多くの若者のやうに戀び

ととアアク燈の仄かな公園の深い

樹林のなかにひそんだり、或は明

るいさざめきにみちた街のさかり

塲の甃石しきいしのうへを跫音たかく散歩

したりするやうなこともなく、夕

食をたべるとすぐにひょろひょろ

と立上つてあの遠い郊外の櫟林の

原へ行つては、渚の砂上にのこつ

た足跡よりももつと儚ないゆめに

ひたつてひとり泪ぐむやうな人間

であつたのです。

 さういふ或る晩のことです。遠

くの方で誰かあのもの哀しいこゑ

をひびかせて明笛を吹いてゐまし

た。欝蒼と、ひるも冷江び江とす

るほどの櫟林のなかの秋ぐさにう

づもれてゐると、葉かげを洩れて

ふりこぼれてくる月かげは寒さを

覺江るほど靑いのです。すぐそば

の草の根にひそんで蟋蟀が細ぼそ

とこゑをふるはせて、明笛の月夜

はひとしほの侘びしさでした。

 私はその櫟林のなかで秋と會つ

たのです。

 -わたしの泪をみたひとはあな

 ただけですの。そしてわたしの

 泪は、わたしの心です。誰れに

 もみせまいと、かたく希つてゐ

 たわたしの泪をごらんになつた

 あなたは、わたしの心をそつく

 りごらんになつたのと同じこと

 ですの。

 秋はその晩それだけの言葉を私

にのこして、ひろい寂しい夜更け

の原をかげのやうに別れて行きま

した。秋の白い頬に、まだらに櫟

の葉かげをうつしたその月の良い

晩のひとときを、私は忘れること

はできません。秋が私と慧子とを

のこして遠いところへ去つてしま

つてからといふものは、月夜がめ

ぐつてくるたびに、私は熱い泪を

覺江乍ら、哀しくなつかしく、そ

の夜の秋のおもかげを偲びます。

 その夜から私だちは、たびたび

その原で會ふやうになつたのです

秋はほつそりと背のたかいひとで

した。いつも白粉の匂ひなどはし

たこともありませんが、肌江のき

よらかに白いひとで、ことにその

眼はいちどみたら、忘れることの

できないほど、澄みきつてつぶら

だつたのです。秋はどういふもの

か大へんにネルの着物を好きなひ

とでしたし、またあのひとには、

ことにうす藤いろの着物がいちば

んよく似合つたのです。

 -わたくし、ネルの着物をいち

 ばん好きなの。ですからわたし

 は、ネルの着物をきる季節を大

 好きですのよ。晩春とか、秋と

 か・・さう、さう、月見草が咲きだ

 す頃、それからその花が日まし

 に小さくなつて、まひるでも咲

 いてゐる秋の頃・・その頃がいち

 ばんなつかしい。寂しいけれど

 耐らなく好きなの。


 ひと夜ごとに秋は深くなつて、

もう空に散らばる星のまたたきに

も冬の冷たさをおびてゐたのです

ひろい枯草の原をわたつてどこか

らともなく落葉をかさこそと散ら

してくる風は、ふたりの心に泌み

つほどの寒さをふくむやうになり

ました。さういふ晩は、思はずふ

たりで身を寄せ合つて、胸をかた

く擁きしめることもあつたのです

が、まだいちども唇を吸ひ合ふな

どといふことはしなかつたのです

これは私がそんなことをするほど

までに秋を愛してゐなかつたから

ではないのです。私は秋の餘りに

澄みきつた清らかさに、まぶしい

ほどの美しさを感じたからです。

これほど美しいひとの心もからだ

も、そつくり私ひとりのものにす

ることができたら―ああ私はそれ

だけで息絕江てしまつてもいいと

まで、心のうちではひそかに、そ

んな情熱にも江て、すべてのゆる

される日が一日でも早く自分にめ

ぐまれることを、切なく希つてゐ

たのですが、私には處女おとめに感じる

愼しみといふものが、いつもはつ

きりと冷たく目覺めてゐたためで

もあつたのです。

 けれども或る晩のことでした。

 冬はもう全くあの櫟林を灰いろ

にとぢこめて、落ちつもつた朽葉

は、冷たく濡れてうづたかく土に

埋もれてゆくのです。櫟の梢に散

りのこつたわくら葉も、私だちの

かすかな跫音にふるへて、ぱらぱ

らとひるがへるほどであつたので

す。冬の夜は月があるとかへつて

寒いものですが、その夜もやはり

十日頃の明るい月夜でした。その

晩も秋はまだネルの着物に羽織を

きてゐたのです。ふたりは秋の頃

のやうに草原に足をのばして坐る

こともできないので、うそ寒い林

のせまい樹木のあひだを歩るいて

ゐたのです。

 ―僕はこの世のなかでは詩をい

 ちばん愛するものだが、秋ちや

 んはどうかしら。

 私はひとり言のやうにさう呟き

乍ら、秋のすつきりしたゑりくび

をうつとりとみつめてゐたのです

秋は默つてかたはらの細い櫟の木

によりかかつてゐます。

 ―つまり僕の言ふのはこういふ

 ことなのだ。詩といつても普通

 に詩とよばれる作品は言ふまで

 もないが、それよりももつとひ

 ろい意味で、繪でも、小說でも、

 海でも、空でも、花でも、山でも、

 小鳥でも、ものはなんでもいい

 んだが、そのなかに僕の心にし

 みいるほどなつかしい詩の味ひ

 があれば、僕はそれを好きなの

 だ。形はなんでもいいのだ。た

 とへば、僕にとつては、秋ちや

 んがこの世でいちばんさみしく

 て温かい僕の詩なのだ。また秋

 ちやんのかく抒情畫も、大へん

 好もしい詩だと、こういふつも

 りなのだが。人間はずつと幼い

 頃には母さんや星などがこの

 上ない詩だと思つてゐるときも

 あるだらうが、だんだん大きく

 なつてゆくと、秋ちやんのやう

 な詩に憧れるものだ。秋ちやん

 ―きみは今、この僕をそんな風

 に思つてゐてくれるだらうか。

 私はひといきにさう話しかけて

から、秋をぢつとみつめたのです。

秋は私の言ふことを深く頷いてか

らやはりなにも言はずに、高い空

の月をあふいでゐたのです。よくみ

ると、そのひとみにはいつのまに

かいつぱい泪をくぐんで露くさに

宿る朝つゆほど月かげにひかつて

ゐたのです。私はそれをみると秋

が可哀想で、いとしくて耐らなく

なつて、なにもかも忘れてはげし

く彼女を抱きしめるとそのまま、

頬をすりつけてしまつたのです。

 ―秋ちやん。僕を・・ぼくをゆ

 るしてくれる・・・

 私は思ひに耐江かねて秋の唇を

吸はうとしたのです。すると、秋は

かるく手でそれをさけるやうにし

乍ら、

 ―あなたのお心はよく分つてゐ

 ますの。だけどわたくし、お父

 さまにゆるして頂くまでは・・・

 さう言つて私の胸に顔を埋めて

はげしく身をふるはせ乍ら泣きだ

してしまつたのです。

 私だちは、深しんとこもる冬の

夜氣の靜けさのなかにひそびそと

いつまでも嗚咽をつづけてゐたの

です。

 ―秋ちやん。あなたの言ふのが

 ほんたうだ。僕はよく分つてゐ

 たのだが、あんまりあなたが可

 愛くなつたものだから。僕がわ

 るかつたんだから、もうそんな

 に泣かないでお呉れ。

 ―わたしだつて・・・わたしだつ

 て・・どんなに・・・・

 ふたりは涙ごゑでさう言ひ合ひ

乍ら、冬の月夜の櫟林のなかで、

夜の更けるのを知らずにただ身を

ふるはせてゐたのです。やはらか

い、やさしい處女のからだにたか

なる感情を、私は秋のネルの着物

をへだてて温かく覺江乍ら、きよ

らかなおとめ心を尊くさへ思つた

のです。


 秋は六十一になる父とただ二人

暮らしだつたのです。幼いときに

母が亡くなつて、ほかに兄弟もな

いのですが,そのときまでずつと

父ひとりに育てられてきたのです


 私が秋の父のゆるしをうけて、

秋と一緒に暮らすやうになつたの

は、その年の暮れちかくのことで

す。私が廿八で、秋が廿二の冬の

ことです。


 秋の父がどうして思ひきつてひ

とりむすめを私に呉れたか――そ

れは秋の私にたいする心ざしがひ

ととほりのものではなかつたから

です。そしてまたひとつには、秋

の父は、多くの父とは全くちがつ

た心を持つたひとだつたからです

秋の父にとつては自分の家を後世

につたへるなどといふことはどう

でもよいことだつたのです。そし

て私が世の多くの若者のやうに徒

らに功名心にかられたりしないで

恰も老人のやうに閑日をたのしん

で呆然と日を暮らしてゐるところ

が、いかにも長閑で、おくゆかし

い氣がするから好きだといふ風な

並なみならぬ扁奇なたちのひとで

あつたからです。(未完)

(越後タイムス 大正十四年十一月八日 
               第七百二十七號 六面より)


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