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品川 力 氏宛書簡 その二十一

 昨日は失礼しました。ひさしぶりにお母さまにお会ひして、大へん嬉しく思ひました。一時四十分の汽車で葛飾草舎を訪ねましたところ、彼はどうも
神経がへんで、僕ときたら、あひかはらずのメランコリヤなので、彼は厭生的ひとりごとをいふし、僕は、蚊のやうなこゑで、あなたがたの詩と、得意の秋刀𩵋をくりかへしてうたって、靑葉の午後をくらしました。夜十一時ごろ、いちめんの蛙のすごいこゑのむらがりに、みぶるいし乍ら、淋しい田舎路をあるきました。神経がへんで、へんで、それに月が出てゐましたのでね。とうとう、折角なほしていたゞいた目覚し時計をを忘れてしまって、母に大へん叱られました。あなたにも申訳が厶いません。どうも僕は、大へんな情熱家なものですから。あ、佐藤春夫の「時計のいたづら」といふのがありましたね。今日のタイムスの、S・M君の「暁望の門出へ」樋渡君の
「山窓漫語」この二つの名文をおくられて、どうもうれしくて、むづむづしますね。僕もタイムスでは一等俳優といふところですね。ツトムさん、野瀬君はあなたの「大がらす」を切抜帖にはりつけてゐました。ぼくはうれしい
。大へんほめてゐたので。ツト君ばんざい!メランコリヤにかゝってゐる僕のバンザイはいのちがけです。


[消印]14.6.1 (大正14年)
[宛先]芝区 神谷町 九 光明寺 境内
     品川 力 様


    きくち・よしを・


                       (日本近代文学館 蔵)




 暁望の門出へ
       S M 生

 (Y K 君 へ)

△玆に一塲の君の夢物語りを君に
語らうと思ふ。けれども恐らく君
の實際の生活は、美はしき夢と異
なつて僕等が心のなかでのみたゞ
懐しむに過ぎない、實はみじめな
作家の樣な生活を生活して居らる
ゝ事だらう。そんな推測は僕自ら
の經驗から推して無禮なものだが
まあ許して呉れ給へ。そんな考へ
だから時折慰めのたよりか文章を
書いて送りたいと思つて、是迄幾
たびペンを握つたか知れない。だ
のにいつも書き初めの句に旨い文
章がみつからないために、滿足に
書き上げて送つた事は此の一年と
云ふものないと言つてもよい。所
が今朝はからずも思ひ掛けなく夢
の中で素晴らしい冒頭の詩句を授
かつたので、直ぐと床を離れて書
き出さうとすると、金らんの文字
は跡形もなく闇に消江て了つて、
只虫ばんんだ淡墨の繪の樣な夢がお
ぼろに残つてゐる許りだつた。だ
から冒頭の句を抜いて君に語らう
と思ふ。
△太い黑檀の手摺りの廻らされた
某妓樓の廊下には、僕の心の友S
O君、僕の最愛の友SY君と夫に
君と僕との四人が集つた。何のた
めに妓樓にどう云ふ考へで集つた
のか判らないが、勿論藝術の話題
に飢江てゐるもの許りだから、話
しは君を中心として、そうした方
面に咲いた。
「艶猫と云ふのはねSMさん」
先日君がタイムス紙上に發表した
短篇の標題の艶猫の艶の字の讀み
方に不思議に美しき訓讀をし乍ら
こう僕に話した時、僕は君がロマ
ンチックの夢に浸つて居る事、君
は現實苦の生活と掛け離れた夢を
見てゐる事、君の作品はまるで十
九世紀のロマンチックそのまゝで
古い事、たとへ夫が君の文章を美
はしく、世にも稀な散文詩たらし
むるとも、夫は空中をすべる光の
樣な靑年の淡い夢である事、夫が
どうして此のどす黑いメスの戰ひ
合ふ現實の苦惱を眞向に浴びてゐ
る民衆の糧とはならない事、わず
かに中女學生の樣な思春期の子供
を一寸喜ばせるに過ぎないもので
ある事等を、僕は一々君の發表し
た作品每に例を引いて批評した。
△夢は此のあたりで途切れた…。
「又借りに行くのです」
こう君は言つて、先年來タイムス
紙上に發表した短篇の數かずを、
一纏めにして、S社から出版した
セピア色のクラシカルな裝幀の菊
版の自著を懷いてゐた時、僕は不
思議に思つた。いつ出版したのだ
らうと考へ乍ら。
「此の帳尻に書いてある通り金二
十圓コロ/\の八錢借越です」
と君は、僕のけげんさうな顔色に
答へた。
その奥付の大正十四年五月第十版
發行と云ふ印刷と、出版の原稿料
計算書の不思議な帳尻とを見乍ら
原稿料をすなほに又も貸してくれ
るS社のやり方の應揚の奥には、
君の著書によつて莫大な利益を得
てゐるらしい事を想像して、怒る
よりも何となくS社のやり方が幼
稚さうに思はれて、ほゝゑみが湧
いてきた。
△三〇〇頁の君の短篇集の冒頭の
序文の散文詩の次に、索引通り行
列して居る一篇々々が、世にも稀
なうるはしい散文詩ではないか。
此の日本で活字で表はれた短篇集
で此の樣に人生の詩を美しくにじ
み出したものが他にあらうか。
「上條蠻爵」
「電話の振子の舞踊歌」
「上海のいたち」等
その作品の一つ一つが讀者をほゝ
ゑませ乍ら尚その文の流れの底に
難い人生を渡るみじめな靑年闘士
がそう/\として歩みを刻んでゐ
るではないか。
△その君の著書の殿りに、僕がま
だ聞いた事もない人の或る小說が
五十頁許り、作者の小照と共に載
せられてゐる。僕は序文の前に君
の姿が載せられてない事が不思議
に思はれた。
「此の人を知つて居るかね」
「私の恩人です」
君はこう答へてから默した。その
時の君の樣子と言つたら、如何に
もその人の少說が君の著書の殿り
に載つて居るために、君の著書を
S社が引受けてくれるのだと言ふ
風に見江た。だが十版も重ねたの
は君の作品の爲だ。夫は僕が讀者
であるから斷じてよく知つてゐる
君は若い中にさうした誇るべき一
册の自著を持ち乍らタイムスにそ
の事に就て、斷片語さへよせない
事を思ふと、君の底深い惱みが思
はれて、心の中でいたはつた。
△僕の最愛の友SYが太い柱によ
り掛つたまゝ、どんぶり鉢にすつ
かり顔を埋めて、エビの天ぷらに
かじりついてゐた。SOは靜かに
兄さん達に見江る僕等の話に耳を
傾けてゐる許りだ。
突然カラ/\と笑ふ聲。
耳迄裂けた眞紅の唇を持つた蒼白
なSYの肉に飢江た笑ひが、ドン
ブリ鉢の中から上げられて僕の此
夢は覺めた。
   ・・・・・・・・・・
YK君、君が過去二年間にタイム
ス紙上に發表した短篇を集めて世
に問ふて見ても恐らく早くはなか
らうと思ふ。(一四、五、二〇)

越後タイムス 大正十四年五月丗一日 第七百四號 二面より




菊池兄へ/宮 川 生


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