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ある避暑地の印象

◆昨夜は終列車できたので、安房

北條から館山までの、一里ぢかい

田舎道は淋しかつた。月がない晩

なので、よほど、氣をつけて歩るか

ないと、田甫か川へ、おつこちさ

うになる。ことに、私はヴィタアミ

ンAが足りず、とりめになつてゐ

るので、この不安が、こびりつい

て、全く足が、すくむで困つたの

である。もつとも、こんな夜おそく

田舎道を、歩るきつけないためで

もあるが。まつ黑い山の姿が、も

のすごい、大きな動物かなんかの

やうに、今にも動きだしさうにみ

江るのである。畑の中に、にょき

つと、突立つてゐる、一本杉など

があると、ぞつとするのである。ま

るで鎗かなんかのやうにみ江て。

◆東京を出る頃から、西北にしきたの空で

ひどい、雷光がしてゐたが、こゝ

へきても、雨もよひの空で、しき

りに、ひらめくのである。雨が、ぽ

つりと麥稈帽子のふちを、たゝく

音をきくのは淋しいものである。

ことにこんな人一人通らない晩な

どには、身に泌みてわびしいので

ある。しかし、雷がならないのが、

まだしものことである。さつきも

汽車の中で、私の前にゐた二人の

女學生が、しきりに、雷光の美しい

きらめきを、たゞ江てゐたが、その

とき、雷がなつて、ひどい雨でも

降つてゐたら、決して、そんな、雷

光の讃美などは出來なかつたに、

ちがひない。私のやうに雷ぎらひ

の男は、もし、雷でもなりだしたら

歩るく氣にはならないのだが。

◆十二時ちかくなつて、漸く私は

汗みどろになり乍ら、館山町のは

づれの柏崎へつき、磯くさい、叔

母の宿の庭の木戶をくゞつたので

ある。

◆夜があけると、もうぢり/\あ

ついのである。私達は朝飯をすま

すが早いかミン/\蟬に追ひ立て

られるやうに、海邊へ走つてゆく

のである。淡紅色に黑くふちどつ

た贅澤な海水着の上からタオルの

つりがねまんとをまとひ、すきと

ほるやうな緑の海水帽をかむり、

白靴をはいた、まるで古代ローマ

の武士のいでたちを偲ばせるやう

な姿をした、若い女達がまつ白い

化粧をして、腕のへんから、わき

腹へかけての、まる/\と、氣持よ

くうねつた。枇杷色の肉づきをあ

らはして砂の上で、ふざけてゐる。

ふざけては、ときおり、沖の方をな

がめる。それからあちこちとぶら

/\歩るくのである。そしてまた、

立ち止つてはなにか語り合つて、

笑ひ興じてゐる。まるで、世の中に

は淋しいことや、悲しいことなん

か、一つもないと信じてゐるもの

ゝやうに。

◆この女達は、恰も戀のよろこび

に、うつゝをぬかしてゐる者のや

うだ――さう私は思つたほどであ

る。比較的へんぴなこゝでさへこ

んな人魚だちが住んでゐるのだか

ら、湘南の避暑地へでも行つてみ

たら、びつくりするほどの光景が

あらはされてゐるにちがひない―

さう私は思つたほどである。

◆夕飯をたべてから、再び海邊を

ぶら/\と歩るいてみる。今夜は

沖の方の軍艦から、さす、さあちら

いとが、はげしく、入り交つてゐ

る。その光をあびるところは映畫

の靑白さの世界である。

◆さつと、私の足ものへ光をむけ

られると、すぐさきのへんで、き

やッ/\と若い女のさわぐ聲が、

きこ江てくる。よくみると、靑い光

のなかで、女のからだが、二つ三

つもつれ合つて、とびはねるかた

ちが、無意識のうちに美しい、舞

踊をつくつてゐる。まるで、ロシア

ンバーレーの一部をきり放してみ

るやうに。

◆今の今まで、私からそんなちか

いところに、若い美しい人魚がゐ

るとは知らなかつたのに。そして、

そんな氣まぐれな、さあちらいと

の光が、これほどの美しい繪と、

すぐれた光の藝術とを、つくつて

くれるものだといふことなどは、

さつぱり考へてみたこともなかつ

たのに。(房州館山の海邊の家にて)


(越後タイムス 大正十二年八月十九日 
       第六百十一號 七面より)


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