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雲 (三)

雲 ――續稿
    きくち・よしを

 秋のお父さんが私だちのことを

すぐゆるして呉れたのは、彼がさ

ういふ並なみならぬ奇人であつた

ためです。或る日私と秋はお父さ

んの前に並んで、今までのことを

そつくり話しました。そしてその

あとで二人とも静かにお辭儀をし

たのです。私だちの結婚はただそ

れだけのことでゆるされたのです

 ―わたしはまづ君の氣質を大へ

 んに好きだ。二十八ぐらいで君

 のやうに老人の心持とそつくり

 なひとは珍らしいことだ。わた

 しは大分まへから、若し秋が結

 婚をする氣になつたら、君のや

 うなひとを是非欲しいと思つて

 ゐたのだが、秋がひとりで、い

 つのまにか見つけだして呉れた

 のは餘計に嬉しく思ふ。それに

 君は心持だけではなく、君のそ

 の美しい白髪を頂いてゐるのも

 あたりまへのひとからみれば、

 一種の畸形だらうが、わたしに

 はそれが奥床しくて、大へん氣

 に入つてゐるのだ。へんなこと

 を言ふやうだが、秋はどういふ

 ものか、わしの風貌を大好きな

 女だが、わしとそつくりだとい

 つてもいい顔だちの君を、秋が

 愛するやうになつたのも、わし

 にはよくわかる。――

 秋のお父さんもさう言つたやう

に、私はその頃、もう頭髪かみの大か

たは月かげにひかるすすきほどの

白髪ばかりだつたのです。私の髪

毛が銀いろを交へはじめたのは、

もつと幼い頃のことです。十七八

の頃になつて、私がものを書いた

り、讀んだりすることに沒頭しだ

してからといふものは、一日ごと

に眼だつて白くなつていつたとい

ふことです。私の母は、いつも私

のことを―若白髪―だといつて、

そんなところまで死んだお父さん

にそつくりだと、たびたび私に父

の若い頃のことを話し出すのです

 ―若白髪のひとは幸福な生涯を

おくるといふひとがあるけれど

うちのお父さんは三十のときに

もうまつ白いほどだつたのに、

あんなに病氣ばかりなさつて死

なれたところをみると、それも

あてにならん話ぢやのう。

 私の母はそんなことまで話しだ

すのです。私は痩せてひょろひょ

ろと背の高い男でしたが、私の顔

も細長くて、眉と眼ばかりが、き

はだつて黑ぐろとはつきりしてゐ

るので、どちらかといふと、白髪

のよく似合ふ顔だちであつたので

す。髪に櫛をいれることなどはな

く、ただのびるに任せて雜草のや

うにぼうぼうとさせてゐたのです

が、それでも年がまだ若いためで

せうが、老人の白髪よりもいくら

か艶があつて房ふさとしてゐるの

を、朝ごとに鏡にうつしてみるの

が、私のたのしみのひとつでした。

普通の若者ならば、黑く染めてで

もそれをかくさうと心がけるとこ

ろですが、私はむしろ白髪をたの

しんでゐるやうな男ですから、私

もまた秋のお父さんにおとらない

奇人のひとりなのでせうか。

 
 私が秋と一緒に暮らすやうにな

ると、私の母は妹をつれて遠い私

だけの故鄕ふるさとの方へかへつてゆきま

した。

 ―お前がいいお嫁さんをもらふ

 やうになつたら、わたしとこの

 兒は、お父さんのお墓のそばへ

 かへらうと思ふとる。

 まへからよくさう私に話してゐ

た母の希ひが、私たちには寂しか

つたけれど、私は母の望みどほり

にしたのです。餘生の短い母の心

を思ふと、ひとりでにあの南國なんこく

山蔭のさみしい流れのほとりに、

薄や葉雞頭などにかこまれてゐる

父の墓石の冷たさなどを思ひ浮べ

て、眼があつくなるのを覺江たの

です。

 秋の父は長いあひだつとめあげ

た役所からもらふもので、やはり

郊外の小さな家に、植木や花や詩

書を樂んで、老人らしい靜閑な暮

らしをしてゐたのです。いままで

秋がなにもかもお父さんの身のま

はりの世話をしてゐたので、秋が

ゐなくなつては、なにかと不自由

なことだらうからと思つて、私は

いくどもお父さんに、私だちと一

緒に棲んでもらひたいといふこと

をたのんでみたのですが、そのた

びにいつも、

 ―あんたのお母さんでさへ遠慮

 をして居られるのに、わしがゆ

 くわけにはゆかないから。

 と言つて、どうしても私だちの

望みをきいて呉れなかつたのです

 
 私だちの結婚の晩は、夜更けか

ら雪が降つてきました。森閑とし

た郊外の家のかたはらの孟宗藪に

しんしんと降りつもる雪のおとを

寒く聽き乍ら、寢床に就いた私だ

ちは、いろいろななつかしい思ひ

出を話し合つて、ひと晩を眠らな

かつたのです。

 ―わたしは一生どこへもゆかず

 に、お父さんのおそばにゐてお

 世話をしたいと心に誓つてゐた

 のに、とうとうお別れしてしま

 つた。それがただひとつのわた

 しの哀しみですの。

 秋はその晩、私にそんな淋しい

心を打明けたのです。明かりを消

してゐたのですが、私は秋がさう

言つたときに、秋の頬に泪がつた

ひ流れてゐるのを感じたのです。

秋がさういふやさしい心ざしまで

捨てて、私を愛してくれてゐるの

だと思ふと、もうなにもかも忘れ

て、泪にむせび乍ら、ただだまつ

て秋を擁きしめるばかりだつたの

です。

 
 ふたりの歔欷すすりなきは、戶の外に深ぶ

かとふりつもる、重い雪のおとに交つて、

夜をこめてつきなかつたのです。

 
 秋のお父さんは、ほかほかとし

た暖い秋の小春日和などに、朝は

やくから私だちの家を訪ねてくれ

たのです。まだ草には露がきらき

らとひかつて、野路はしつとりと

しめりをおびてゐる頃でした。

 古い大きな銀杏の森を二つこ江

るといちめんに葉の靑あほとした

鮮かな大根畑にはさまれたひとす

ぢの野路にでるのです。もうそこ

までくると、あの大きな都會の街

の感じとままるでちがつて、澄み

きつたすがすがしい田舎の匂ひと

大氣とが、どんな憂愁をひそめる

ひとの心をも、ほがらかに樂しま

せるほどなのです。私だちの家は

さういふ靜かな、往還のほとりに

ぽつねんと建てられた、みるから

に古さびた寂しい家であつたので

す。ほんのふたりの侘住居といふ

つもりで、私はこの小さな家をゆ

づつてもらつたのですが、家はせ

まくても、まはりの空地がつかひ

きれないほどひろいので、それに

二階がひと間ついてゐて、その室

のひぢかけ窓からは眼路のかぎり

空が見江るし、ほどよい傾斜をも

つた田畑が、春はあざやかな靑い

波や、菜の花のきんいろの敷物を

しくだらうし、秋になると、ゆた

かにみのつた稲の穂が黄金いろに

秋風になびくのもいいし、さうい

ふ一望のひろい田野の遠い彼方に

は、こんもりとした森がいくつも、

くろぐろと靑い空の下に静もつて

秋の夕暮れなどに、ふたりでその

窓から、ぢつとそれらの風景をみ

まもつてゐると、いつのまにかふ

たりとも眼瞼のうちに熱い泪があ

ふれてくるほど、もの淋しいなが

めが、まづ私だちの心をひきつけ

たのです。私も秋もさういふ寂し

いものを好きな人間だつたのです

ことに秋は、はじめてこの家をみ

たときに、その二階の窓から冬の

澄みはれた空をみると、なにごと

も忘れて私の胸に頬を埋め乍ら、

 ―わたしは嬉しくて耐らないの

 あんなに空が見えるのですもの

 わたしこの家を大好きなの。若

 しもここへ住むことにきまつた

 ら、この二階のお室はわたしの

 お室にしてくださらない?

と、泪ごゑでわたしに希つたほど

だつたのです。

(越後タイムス 大正十四年十一月十五日 
                   第七百二十八號 二面より)

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