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薔薇の窓と不思議な於ぢいさん

 信男さんのお家の窓には、西洋

から取り寄せた美しい小さい花の咲

く不思議なバラの木が、ちようど

古い教會堂の壁に這はしてある蔦

かづらのやうに茎を伸ばし、葉を

茂らせてゐるのです。

 やがて眩しいほどな靑葉の頃に

なると、その薔薇は、櫻坊さくらんぼうのやう

にどつさりと綺麗な小さい花を咲

かせて、街を通る人々や近所に住

んでゐる人々の眼を大へん樂しま

せるので、大した評判になつてゐ

ます。

 信男さんのお父さんやお母さん

もその可愛らしい花が澤山の人達

の慰めになるのを大へん喜んで一

つでも多く、すこしでも美しい色

に花が咲くやうにと、大切に育て

ゝゐらつしやいます。信男さんも

朝と夕方には、窓へ梯子を掛けて

噴霧器きりふきで水をふいてやることを忘

れません。


 すると或る日曜日のことです。

信男さんが窓にもたれてぼんやり

と往來を眺めてゐますと、何處か

らともなく一人のみすぼらしいお

爺さんがトボ/\歩いてきて、ふ

とその薔薇の窓を見上げると、う

つとりするやうな眼をして窓の下

へ立ち止まつてしまつたのです。

 信男さんは一眼みると、あ、あ

のシャボン玉を賣るお爺さんだな

と、去年も一昨年も、薔薇の花の

咲きこぼれる今頃になるときまつ

て、この窓の下へ來たことをすぐ

思ひ出したのであります。

 お爺さんは暫らくの間そこに佇

んだまゝ心を奪はれた人のやうに

窓の花をみつめてゐましたが、や

がて信男さんに氣がつくとそのし

はだらけな小さい顔ぢゆうでニッ

コリ笑ひ乍ら、「坊ちゃん。またや

つて來ましたよ。今年もきれいに咲

きましたね江」と、心の底から喜ば

しさうに、肩にぶらさげてゐたつ

るべほどの大きさの桶をおろして

どつこいしょと地面へ腰をすゑま

した。そのお爺さんはシャボン玉

賣りなのです。桶の中へシャボン

の泡をとかして持つてゐて別に小

さな硝子びんを袋からとりだして

は、小さな子供さんたちに一びん

一銭づゝで賣るのです。

 お爺さんはふところから長い竹

の管をとり出して桶の中へひたし

てから、ぷーッとひとふきふきま

すと、大きなシャボン玉がまんま

るくふくらんで、やがて竹のさき

を離れ、ふはり/\と空へ舞ひ上

ります。それが春の午後の日ざし

をうけてさま/゛\な色をくる/\

と廻し乍ら、風がなければ時には

お屋根のへんまで飛んでいきます

さうしてお爺さんは樂しさうにバ

ラの花をみ上げるのです。

 お爺さんが竹くだをくはへたま

ゝ「ふゝゝゝ」と淋しげに笑ひ顔を

しますと、シャボン玉はちいさくつ

ゞいてかぎりなく飛びだすのです

 それからお爺さんはさも可笑く

てたまらないやうに竹くだを口か

ら離して「ははゝゝゝ」と聲にだし

笑ふのです。それをみると信男

さんもつりこまれて笑ひました。

そして「おじいさん、僕にも一びん下

さい」と言ひますと、すぐお爺さ

んは竹のくだを添へて特別に大き

なびんを窓からのぞけて呉れたの

です。

「坊ちやん。あの靑空をみて、そ

してその花をごらんなさい。それ

からシャボン玉を吹くと、それは

綺麗な夢をごらんになりますよ」

お爺さんはつぶやくやうにこんな

ことを云ひ乍ら又一つゆつくりと

竹のさきをふくらませるのです。

信男さんもお爺さんの云ふ通りに

して夢をみやうと思つたので、一

つ大きなのを吹きましたが、別に

お爺さんの云ふやうな夢をみるこ

とが出来ません。「お爺さんのみる

夢つて、どんな夢なの?」と眼を

輝かして訊ねたのですが、お爺さ

んはたゞ笑ひ顔をしてゐるだけで

何も教へては呉れないのです。そ

してシャボン玉ばかり吹いてゐる

のです。信男さんは、ひよつとす

るとこのお爺さんはよくお伽噺に

ある魔法使なのではないかしらと

思ふと、何だか恐ろしいやうな氣

持がしますので、それつきり話す

のをやめて、お爺さんに負けずに

シャボン玉を吹いてゐました。

 そのうちに信男さんはだん/゛\

と氣の遠くなるやうな心持がしだ

しました。靑い空もバラの花もお

爺さんも自分のくはへてゐる竹の

くだも、はつきり見江てゐるのに

どうもそれらが多いところにある

ものゝ影のやうな氣持です。する

とお爺さんが靜かに立上がつて、

黙つて桶を指してゐるのです。信

男さんは何もかも分つてゐるやう

にその桶の中へ片足いれますと、

不思議にも身体全体がその小さな

桶の中へダブ/\と埋つてゆくの

です。桶の中はシャボンの泡でい

つぱいですから、信男さんはまつ

暗いその桶の中でふと顔を仰向け

にしますと、ちやうど深い井戸の

底からでも見上げるやうに、靑く

澄んだ窓が圓くくぎられて見江ま

す。今その幻燈のやうに見江る空

を雲がひときれ、ゆる/\と流れ

るところです。と、急に何か黒い大

きな鳥でも飛んだのかと思ふほど

の影が、信男さんの眼からそとの

光をうばつてしまつたのです。よ

くみるとそれはおじいさんの顔であ

つたのです。桶のまうへからニュ

ッと覗きこんだお爺さんの眼玉が

ピカリ/\と光つて物凄いつたら

ありません。驚ろいてゐるひまも

なく信男さんの眼玉へ竹のくだが

づぶりと突き刺される、あつとい

ふうちに信男さんのからだは急に

軽ゝと、竹くだに吸ひ上げられ、

今度はまばゆいほど美しい色水晶

の玉にかこまれて、ふわりと明る

い空をのぼりはじめました。みる

ともうお爺さんは、はるか下の方

に小さく見江ます。バラの花もお

家の屋根も今まで高いところにあ

つたものが、みんな眼の下にある

のです。


「あ、これは愉快だ」と信男さん

は餘り面白いのでさつきの不思議

な氣持も忘れてをどり上がりました

するとそのはづみに今まで上へ上

へとのぼつてゐたのが急に非常な

勢で落ちはじめました。「これは

大變だ。お爺さん/\。たすけて

下さい」と信男さんはまつ靑にな

つて大きな聲を立てましたが、と

うとう、バチンといふ大きな音と

いつしよにバラの花びらへつきあ

たつて、信男さんの入つてゐたシ

ャボン玉がこはれて了つたのです


 氣がつくと信男さんは竹のくだ

をくはへたまゝやはり窓にもたれ

てゐるのです。

「どうです。坊ちやん、面白い夢

をみたでせう」とお爺さんは笑ひ

乍ら窓をみ上げて話しかけました

が、今度は信男さんがそれに答へ

やうともしないで笑ひかへすだけ

でした。やがてお爺さんは元のや

うに桶を肩へのせて又とぼとぼと

どこかへ姿をけしました。

 信男さんが不思議な夢をみてゐ

るうちに、晝でも眠つてゐるやう

な、ひつそりと靜かなこの町は、

もうすつかり夕暮れであつたので

す。(終)


(越後タイムス 大正十四年一月十八日 
     第六百八十五號 二面 より)


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