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【いまはもうなき旅の記録】 1.バンコク初夜・カオサンロード

2007年8月3日金曜日の夜、背負い慣れない65ℓの重いバックパックと共に、僕はバンコクのドンムアン空港に降り立った。
空港から一歩外へ出るとすぐさま、日本では感じたことのない生温い夜風が肌に張り付いた。そしてその風に乗って、同じぐらい湿った"微笑み"を浮かべるタクシードライバーも付いてきた。
「タクシー?コンニチワ!タクシー!」
ものの数秒でガイドブックに書かれた<注意>そのままの人物が出現したことには驚いた。この男を拒否するという最初の関門を涼しい顔で通り抜けるには経験も度胸もない。勝ち目はあるのか?
逃げよう。
どれだけ無視してもタクシードライバーは尾けてくる。足早に逃げ回ったが、その場にいるのはほぼ同種同類のドライバーたち。いくら逃げても追ってくる者が変わるだけだった。
数分後、僕はやむなく最初の男のタクシーに乗せられていた。金額を交渉する気力もすでに失われており、まるでこれから監獄に送られる冤罪犯のような諦めの心象で、異国の街へと運ばれていった。

タクシーのオンボロ窓を少し開けただけで、外の熱と喧騒に巻き込まれそうになる。それとは対照的に、さっきまでしつこかったドライバーは混雑した道路を無表情で眺めている。時の狭間、眠気もあった。
しかし突然、光に包まれた巨大なオブジェが視界に立ちはだかった。
「キング、キング」
ドライバーは突然ガイドになった。どうやら国王に関連する何かのようだ。
虚ろだった僕の目にポッと、興奮が宿った。国王をライトアップした黄金の光はそのままバンコク、タイ全土、ひいては世界を丸ごと照らす輝きを放っているように映った。

それからすぐ、目的地の「カオサンロード」に到着した。
カオサンロード、古くから伝わる<バックパッカーの聖地>。いくつもある入り口のどこかテキトーな所でタクシーを降ろされた僕は、深夜でも真昼のように明るく騒がしい中心通りを歩き出し、まずいきなり恐怖した。

当時いつでもポケットに入れていた旅のノートには、こう記されている。

【危ない。ゲストハウス探しも恐い。】
【コワイ。→現地の人間、目やばい】

もう日本語が不自由になっている。よほど恐かったんだろう。手足のない物乞いや浮浪児たちの姿が網膜に焼きついた。ワケガワカラナカッタ。そこはこれまで生きた世界と違い過ぎていた。
「現地で安くても良い宿を吟味してやろう」とベテランバックパッカーのような頭でいた僕だったが、検討する間は一切なく、一番近くの安全そうなホステルに飛び込んだ。

【少し値は張るけど D&D IN。白人多くてまだ安心】

とても素直なメモでよろしい。その時、見慣れた白人の旅行者が近くに存在していることがどれほど救いになったか。しかし、同時に生意気なことも書いている。

【→なんかアホなイメージ。好きだけど。】

申し訳ないが、確かに、ホステル隣のバーで騒ぐ白人バックパッカーらは見事なまでにアホな痴態を晒していた。その様がアジアの暗闇に怯える僕には天使のように感じられたのだ。

ホステル「D&D IN」の2432号室。鍵は壊れていた。フロントに言う勇気もなく、自前の南京錠でなんとかした(多分)。
7階には屋外プールがあり、街全体を見渡すことができた。カオサンは、まばゆいライトを浴びて、周囲から切り離された舞台のように浮かび上がっていた。さっきまで恐怖の対象だった者たちは、舞台の人形のように可愛らしくなった。プールに身を浸すと、ようやく、この夜の蒸し暑さが心地よく感じられた。

【ここにしてよかった。550バーツ*の甲斐あり】 *当時約1600円
【平和だな。素晴らしき世界。】
【BAR姉ちゃん最高。最高だ、beautyだー。うらやましいぞ、英語。いきなりいい感じになってんじゃねーよ。近いって。Funnyしか聞き取れぬ僕。】
【ヒトリ。少しだけ、ってかカナリ寂しい。】

混乱、疲労、興奮、恐怖、安堵、欲情、嫉妬、寂しさ…こんなにも慌ただしく感情が変化した一夜はこれまで一度もなかったものだ。

プールサイドに寝そべる3人の白人女性らの会話を盗み聞きしたメモ。

「Don't forget anything. But it's not responsibility.」

それに続けて、自分でこう書いていた。

【この旅に何を望むか、それが大事になってくる。
 この国には美しさがある。
 汚れた者の街に、誰も奪えない美がある。
 この風は人が造ったものじゃない。
 眠らないのは人じゃない。】

たかが数時間でも、旅は人を詩人にする。


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