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星になった子供たち…波照間島の悲劇

「 忘れられない人がいる… どうしても逢いたくて…
 またここに来る 想い出の場所へ…」

小田和正 『緑の街』歌詞より抜粋

元記事はこちら


数年前、西表島の南にある南風見田の浜を歩いていると、浜の繁みの岩盤に、風化してかろうじて読めるくらいの文字で何か彫られていました…

いったいこれが何を意味するものなのか。その時僕は、何も確かめないまま、翌日には島を後にしました。

しかし、翌年訪れた波照間島で、衝撃の事実を知ることになるのです…

『戦争マラリア』という言葉をご存知ですか?

日本最南端の有人島であり、透き通るような美しい海に囲まれた波照間島。

この島で、太平洋戦争末期に起こった〝ある悲劇〟について知る人は、沖縄本島にも非常に少なくなってきているようです…

今回は、今まであまり知られてこなかった、この〝戦争マラリア〟の悲劇について、『日本軍と戦争マラリア』を参考文献として、触れていきたいと思っています。

とても辛く悲しい内容ですが、つい最近の日本で実際に起きた事実であり、後世に語り継がなければならない〝一生モノの歴史〟のひとつですので、どうか最後までお付き合いください。


太平洋戦争末期の1945年3月、米軍は沖縄本島での陸上戦に備えるべく、慶良間列島に上陸しました。

当時、そこからはるか南方にある波照間島は、何度かの空襲はあったものの、軍隊も配備されておらず、比較的にのどかだったと言います。

そんなある日、波照間島小学校(当時の国民学校)に〝山下虎雄〟というひとりの青年が代用教員として赴任してきました。

これが、その後の波照間島の悲劇の始まりでした…


島民は当初、何の疑いもなくこの青年を歓迎したそうです。

しかしその男の本性は、陸軍中野学校出身の軍人だったのです…

陸軍中野学校は、戦中に軍事スパイを養成するために作られた機関で、2000人あまりが卒業したと言われています。

その存在も活動も極秘とされていて、終戦直前に関係資料は全て焼却されたと言います。

終戦を知らされず、戦後もルソン島で任務にあたっていた小野田少尉もここの出身でした。

この陸軍中野学校出身者がこの時期、米軍の上陸が予想される沖縄の島々に派遣されました。そしてこの〝山下虎雄〟もそのうちのひとりだったのです…

〝山下虎雄〟というのは偽名でした。

赴任当初は物腰が柔らかで、子供達にも親切に接していたと言います。


その山下が本性を現したのは、沖縄戦が本格的に始まった1945年3月下旬のこと…

突如、軍服を着て現れた山下は、全島民を集めると「日本軍の命令だ!」と言い、波照間島から西表島への強制移住を指示しました。

この疎開と称した〝強制移住〟は島民にとって恐るべきことでした。

なぜなら、当時の西表島は今とは全く違い、未開の地であり、マラリアの発生地域として恐れられていたからです。

当然、島民は猛反対をしますが、しかし、そこに昨日までの優しい山下の姿はなく、容赦無く軍刀を振りかざしたのです…山下は人が変わっていました。

さらに山下は、「米軍の食糧になってはいけないから」と、島にいる家畜 (牛馬、豚、ヤギ、鶏など)は殺処分し、畑は全て焼くように命じます。

しかし、処分された家畜はその後石垣島に送られ、日本兵の食糧になったと言われています。

こうして島を追われるようにして、西表島(南風見、由布島)に渡った島民を待ち受けていたのは、地獄のような環境でした…

山下による恐怖統治、食料は底を尽き、川の水を飲む生活…

マラリアの感染者が出るのにそう時間はかかりませんでした。

間もなくして死者が続出します。

この緊急事態に、当時の国民学校校長の識名信升氏が、意を決して石垣島に渡り、八重山諸島守備隊の宮崎旅団長に惨状を必死に説明し、ついに帰島の許可を得ます。

西表島の南風見に戻った識名校長は、それでも反対する山下を振り払い、生き残った島民と共に波照間島に帰島しました。

しかし帰島後、マラリアが蔓延します…

そこに食糧不足による栄養失調が追い打ちをかけ、島民は田畑を耕作する気力もなく、琉球王朝が飢饉の際の非常食用にと栽培を奨励していた〝ソテツ〟を食べて飢えを凌ぎました。

ソテツには毒性があり、その毒でも多くの人が亡くなったそうです。

このように、マラリアとの戦いは、帰島後の方が凄惨さを極めたのです…

その後、1946年に入り、マラリアの蔓延はようやく沈静化し、1955年のDDT散布により、沖縄県からマラリアは完全に撲滅されることになります。

結果としてこの悲劇で、波照間島全島民1590人のうち、1587人が感染し、477人が死亡。島民の約3分の1が死亡しました。

当時の国民学校の学童も、全323人のうち66人が死亡しました…

西表島での過酷な生活の中でも、識名校長は岩場を使い、子供たちに授業を行なっていたそうです…

しかし、死者が続出し、中止を余儀なくされます。

帰島直前、識名校長は、学童が勉強していた岩盤に、「この悲劇を決して忘れないで欲しい」という願いを込めて、ある文字を彫り込みました…

「忘勿石    ハテルマ  シキナ」

【故郷の波照間島を見つめる識名校長の胸像と、忘れな石の絵を描きました】

これが、僕が西表島の南風見田の浜で見た、あの消えかかった文字の正体です。

いわゆる南風見田の浜の『忘れな石』のことです…

現在はその先にこの岩盤のレプリカと、識名校長の胸像が大海原に向かって建てられています。

識名校長が見つめるその先には、故郷の波照間島があります。

そして波照間島にも同じく、西表島の方角に向けて、学童慰霊碑が建っています…

当時の国民学校は、現在も波照間小学校として存在しています。

そして、その外壁にはある〝哀しい唄〟が刻み込まれているのです…

波照間小学校の全児童と職員の並々ならぬ想いのこもった『卒業制作』です。

『星になった子供たち』

波照間島に広がる満点の星空…

戦争マラリアの犠牲者は、

「波照間島が恋しい…」と言いながらひとりふたりと星になりました…

そして、今日も故郷の波照間島を空から見守っているのです…

【追記】

山下虎雄軍曹(偽名)は、人知れず島を脱出。

戦後、3回にわたり波照間島を訪れています。

3回目の来島となった1981年には、全島民による来島への抗議書が出されています。

山下氏がなぜ、3回も波照間島を訪れたのかは今も謎に包まれたままだそうです。

山下氏は晩年、滋賀県に住み、機械メーカーの会長を務め、1997年2月に死去。

識名信升元校長は、忘れな石について、生涯においてほとんど口にしていませんが、唯一1982年に行われた『石原調査』の際にこう語っています…

「この場所で勉強した生徒の中から、死者が出たことに対する追悼と、強制疎開により死者が出た事実を忘れてはならない。という想いから、刻み込んだのだ。」

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