実体験を元に書いた回顧録集。
新作映画を観るならレイトショーに限る。 僕はこの考えに疑いを持たない。 よほど不人気の作品なら話は別だが、たいていの作品は満席状態となっている。隣の人が身じろぎをする気配、後ろの席に座る人のつま先が自分の椅子を蹴る衝撃、映画の内容を理解できなくなった女が彼氏にひそひそと質問する声、ポップコーンを噛み砕く音———。 これらに邪魔をされ、作品に集中できないのだ。 そもそもなぜポップコーンなどという音の出る食べ物を売っているのか理解に苦しむ。食べていない人からすればうるさい
10月下旬、僕はハイエースを運転して、オートキャンプ場に向かっていた。 高速道路を降りて、現地のスーパーで買い出しをしたあと、のどかな田舎道を走る。 景色のいい場所に行って車中泊をするのが、近ごろの楽しみとなっていた。 よく晴れた日で、空は青く、日光を受けた山は鮮やかな緑色をしている。 その緑を分断するように延びる灰色の上を、心地いい速度で進んでいく。 信号機もほとんど見なくなり、田舎の風景に癒された僕は、すでに「来てよかった」と感じていた。 それを見たのは、小さ
ローテーブルの前で片膝を立てて、僕はネタを考えていた。 無音にしたテレビ画面には、津波の映像や、悲しみに暮れる人々が映っている。 東日本大震災から、数日が経った夜だった。 ゴールデンウィークに単独ライブを控えており、そのチケットはすでに発売されていた。 僕はその台本を書かなくてはならなかったが、どうにも集中することができないのだった。 こんなときに、自分はいったい何をやっているんだ? いま「面白いこと」を考えるなど、許されるはずがないだろ——。 いっそテレビを消
これは僕がじっさいに体験した、恐怖の記録である。 晴れた冬の日、愛車のハイエースに乗って秩父の美の山公園に向かった。 そこにある展望台にGoProを仕掛け、夕暮れの様子から夜景に変わるタイムラプス映像を撮影するためだった。 寒さに凍えながら、景色を観に来た人たちに頭を下げながら、僕はひたすら待ちつづけた。 苦労の甲斐あって、満足のいく映像が撮れた。 https://www.youtube.com/watch?v=XRdVLtop3GQ (ちなみにこの動画の一番目の
当然を破壊することは罪なのだろうか。 たとえそうだとしても、私は真実を追いつづけるだろう。
洗濯物を畳んでいるとき、靴下の片一方がなくなっているのに気づくことがある。 たいてい洗濯機のタンブラーの中に、隠れるようにして残っている。 そうでなければTシャツなどの衣類の中に、これまた隠れるように潜んでいる。 また、靴下を保管場所に入れようと引き出しを戻したとき、靴下は高確率で挟まる。おそらく70%は超えているのではないだろうか。 これらの現象は、どれも偶然とは言いがたい頻度で起こっている。 この問題について頭を悩ませつづけた結果、私はある仮説に行き着いた。
「simulation」という英単語がある。 私が子供だった頃はこれを、「シュミレーション」と発音するのが主流だった。 『信長の野望』などは「シュミレーション・ゲーム」と言っていたし、周りの人間もそうだった。 むしろ「シミュレーション」などと発音している者を見たことはなく、説明書などにも「シュミレーション・ゲーム」と書かれていた気さえする。 しかし現在、「シュミレーション」と読み書きすると、「いやシミュレーションだから」と指摘されてしまう。 私が大人になるまでのあ
目の外側の端を指して「目尻(めじり)」という。 これは決して、笑うなどしてしわができた様子がお尻っぽいからではないらしい。 始まりを「頭」、終わりを「尻」と呼ぶのは、何も「目」に限ったことではない。 しかし、身体の部位を表現するのに、身体の部位を用いるのはいかがなものか。 「目尻」などと言われた目の立場からすれば、自分が目なのかお尻なのかわからなくなり、己の存在自体を見失ってしまうだろう。 聞き手の立場からしてみても、「目尻」という言葉は「目みたいな尻」という解釈も
世の中にはたくさんのフルーツが存在する。 リンゴ、メロン、キウイ、レモンなど、それぞれに名前がつけられている。 その中で明らかに浮いているのが、グレープフルーツである。 私はこのグレープフルーツのことが不憫でならない。 どこもグレープ(ぶどう)らしくないのに、なぜ「グレープフルーツ」という名前がつけられたのか。 調べたところ、グレープと同じような感じで木になるフルーツだからだそうだ。 こんなにひどい話があるだろうか。 果実そのものが似ているならまだしも、「木にな