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男の約束

「お前らがそこまでバイクに乗りたいって言うんなら、俺は最悪の事態への覚悟をする」

珍しく厳しい口調で父は言った。

僕が19歳、弟が16歳のときだった。原付や四輪のときは何も言わなかった父が、二輪免許の取得に対しては口を出してきたのだ。それほど危険なものだと考えていたのだろう。

「――ただし、絶対に後ろに女の子を乗せるな。ちょっとでもケガをさせたら、責任なんてお前らに取れないんだからな。それが守れないなら認めない」

リビングは静かだった。母はただ事態を見守っていた。おそらく二人で決めた条件だったのだろう。

「男の約束は守るよ」

僕はすんなりと受け容れた。正直言って、彼女なるものがいなかった僕にしてみれば、あってないような条件だったのだ。

「うん、俺も……」

彼女がいた弟も、乗れないよりはいいと考えたのだろう。あるいは、バレずにやる魂胆だったのか。

とにかく僕たちは、二輪免許を取る許可を得ることができた。ガソリンスタンドでバイトをしていた僕は、休日や勤務時間のあとに教習所に通い、免許を取った。高校生だった弟は、夏休みか何かに合宿で取っていたと記憶している。

ホンダのXR250を買った。貯金はすっからかんになったが、後悔はまったくなかった。オフロードのバイクを選んだのは、『ターミネーター2』のジョン・コナーが乗っているのを見て以来「オフロードかっけえ!」と思っていたからだ。その中でもXRにしたのは、ガソリンスタンドによく来るお客さんが乗っていて、性能などの情報も得られていたからだった。

凍える寒さの中、通勤には毎回使い、休日には一人で秩父のほうまで走りに行った。見慣れない景色の中を走るのは気持ちがよかった。林道を見つけてそこに入っていき、不安になって引き返したり、調子に乗ってずっこけたりもした。

春になっても、あいかわらず僕には、父との約束を破る気もなければ、それを脅かすような女っけもなかった。弟はどうだろう? などと考えることさえなくなっていた。

バイク熱が落ち着いた頃には、夏になっていた。こんな暑い日には、家で涼しく漫画を読むのが一番だと、僕は商店街の本屋さんで漫画を買い、家に向かって歩いていた。家が見え、ようやくやかましいセミの声ともおさらばできると思ったとき、

ウォン、ウォン、ウォン――。

後ろから、バイクのけたたましい排気音が近づいてきているのに気がついた。振り返ると、徐行したゼファー400に跨(またが)る弟がいた。

「お、俊」

「おう」

弟は減速したゼファーをふたたび加速させ、家の駐輪場の前まで行くと、バイクを停めた。大事そうにスタンドを立て、ヘルメットを外す。

カツ、カツ、カツ、カツ――。

こんどは後ろから、人の走る足音が接近してきた。とても急いでいるのがわかるテンポだ。

カツ――。その人物は、僕の真横で足を止めた。

弟の彼女だった。彼女はぜえぜえと息を切らしつつも、「こんちわっす!」と僕に挨拶した。

「やあ」

応じながら彼女を見た。両膝に手をやり、顔は汗だくで、サンダルを履いた足はところどころ赤くなっているようだった。もしかしたら、紐が接触する箇所は擦り剝けていたかもしれない。弟のバイクを追いかけ、彼女がどれほどの距離を、どれほどのスピードで走ってきたのか、僕には想像できた。

「じゃ、お先……お邪魔します」

彼女は最後の力を振り絞るようにして、ふたたび駆け出した。サンダルの甲高い音が、天まで伸びていった。さっきまで騒音でしかなかったはずのセミたちの声は、まるで彼女へのエールのようだった。

彼女の態度に不満がいっさい表れていないことから、二人が常にこうして移動しているのだろうと推測できた。

弟は、父との約束を守っていたのだ。

この炎天下の中、恋人に地獄のランニングを強いることになろうとも、男の約束を重要視したのだ。

家に着いたら、何か冷たいものを出してやろう。そしてもしも彼女が望むなら、この漫画も先に読ませてやろう。あとスニーカーを勧めてみよう。

僕は「男としての正しさ」について考えながら、残りの距離を歩いた。


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