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短編小説「狂同生活」

じっと息を殺し、私は暗闇を見つめていた。

ソファーの座の下にある収納スペースだからか、空気がとても淀んでいる。彼女によって、私は閉じ込められているのだった。

ついさっき部屋のインターフォンが鳴り、いま彼女はその応対に出ている。

自力で脱出するのは不可能だった。手のない私に、内側から座を押し上げることなどできない。

玄関の方向から、話し声がかすかに聞こえる。彼女のものと、聞き憶えのない男のもの。もしもいま私が大声を上げれば、きっと訪ねてきた人間は気づくだろう。だがそれはできなかった。私はすでに、声を奪われてしまっているからだ。彼女によって。発声しようとしても、鉄をこするような音が、小さく洩(も)れるだけなのだった。

玄関ドアの閉まる音がして、話し声も消えた。彼女の足音が近づいてくる。それが途絶えると、何かがカーペットの上に置かれる音がした。

少しのあいだ、自分の荒い息遣いだけが、この暗い箱の中に響いていた。

不意に光と新鮮な空気が入り込んできた。彼女がソファーの座を跳ね上げたのだ。

私は目だけを動かして、彼女を見上げた。レースカーテン越しに射し込む弱い陽を真横から受け、彼女の痩せた顔は半分影になっていた。

いったい何が届いたのだろうか。私に使うつもりで取り寄せた物なのだろうか。いまだ私には、彼女の目的がわからない。ただしこれだけは明白だ。彼女は私の存在を、他者に知られてはならないと考えている。

 ――――――――

夜、私はまたしても例の収納スペースに閉じ込められていた。

彼女が男を招き入れたのだ。昼間訪ねて来たのとは別の男だ。彼女との会話は親しげだし、何より聞き憶えのある声だった。

薄い壁を挟んだ隣室で、いま彼女はその男と身体を重ねている。断続的に発せられる、言葉ではない声が洩れ聞こえてくるのは、このソファーが壁に接触しているからだろうか。

この箱の内側に思い切り身体を打ちつけでもすれば、男は物音に気づくに違いない。だが男が私をどうしようとするのか、想像もつかない。いやそれ以前に、こんな身体にされてしまった私が、いまさら自由を獲得したところで、まともに生きてはいけないだろう。

隣室が静かになった。私には無縁の行為は、どうやら終わったようだ。無縁の状態になったのは、生まれつきではない。彼女が奪ったのだ。異性と関係を持つための機能さえも。

わかっていた。彼女は、狂っていると。

そして、それを理解していながら抵抗するどころか、彼女に惹かれつつある自分は、彼女以上に狂っているのだ。ここで彼女と生活しているのは、いまや私の意思にほかならない。仮に誰かが私を救い出しに来てくれたとしても、私はそれを拒否するだろう。洗脳されているのかもしれない。だが、それでも構わなかった。

引き戸が滑る音がして、二人ぶんの足音が分かれていく。どちらかの足音が近づいてきてまもなく、ギシ、とソファーが軋んだ。どちらかが、私の頭上に腰を下ろしたようだ。私は無意識に呼吸を止めていた。

くしゃみの音と同時に、またソファーが軋む。その声からして、座っているのが男のほうだとわかった。

男が何か疑問を口にし、彼女がそれに答えた。

彼女は私の居場所を知っているというのに、平然と会話に応じた。やはり彼女は、まともではないのだ。それとも、動揺を押し殺しているのだろうか。そうだ。そうに違いない。私をこんな目に遭わせているのには、きっと何か事情があるのだ。

男が咳をした。一拍置いて、ふたたび激しく咳き込むと、苦しげに息をつく。男の健康状態に不具合が生じているのは明らかだった。まさかこれも、彼女の仕業なのだろうか。

彼女を責めるように、男が何か言った。誤魔化すような口調で、彼女は言葉を返した。

男がまたくしゃみをした。さっきよりもずいぶんと大きな音だった。思わず私は身じろいでしまい、物音が立った。立ってしまった。

男も彼女も沈黙し、静寂が訪れた。

頭上で男の腰が座を離れる気配がした。そして――。

あっけなく、ソファーの座が持ち上げられた。新しい空気と蛍光灯の光が入り込んできた。男は座に手をかけたまま、唖然とした顔で私を見下ろす。大きく見ひらかれた両目は、真っ赤に充血していた。

男は表情の固まった顔を、ゆっくりと彼女へと向ける。そしてふたたびこちらに視線を戻すと、逃げるように歩き出した。

その後ろ姿がキッチンでもある短い廊下に消える。彼女はヒステリックな声を上げ、すぐさまそのあとを追った。私の存在を知った彼を、野放しにはできないようだ。

私は足だけを使って収納スペースから脱出した。まもなく、玄関ドアの閉まる音が聞こえた。

期待に反して、彼女はすぐに戻ってきた。おそらく男は逃げ切ったのだろう。ふらつきながら歩いていた彼女は、カーペットの上に崩れ落ちると、両膝を抱えて黙り込んだ。いままで聞こえなかった、時計の針の音が意識されはじめた。カチ、カチ、カチ――。

不意に顔を上げ、彼女は私を見た。私は動けなくなった。

彼女は何かを呟き、思いついたように膝立ちになると、昼間届いた段ボール箱を開ける。いったい何をしようというのか。これ以上まだ、私から何かを奪おうというのか。そのとき私が感じるのは、苦痛か、喜びか……。

彼女が箱から取り出したのはビニール袋だった。それが破られ、カーペットの上に置かれた器に、無数の硬い粒が流れ出す。

空腹感には抗えず、手のない私は足を使ってそこに寄っていき、器に顔を近づける。

なぜ彼女は私の存在を隠さなければならないのか。私と暮らすことを何者かに禁じられているとでもいうのだろうか。なぜ男は健康状態に異常をきたしたのか――。
疑問は疑問のまま残っているが、それらの答えを探そうともせず、私は夢中で硬い粒を咀嚼(そしゃく)する。

彼女は私に向かって、優しく微笑んだ。

私の尻尾は激しく揺れている。


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