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渾身の力作

悲しい目に遭わないのが一番だが、ときにその体験が、味わった悲しみ以上の喜びをもたらしてくれることもある。

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今年こそ、工作で誰よりも目立ってやる……!

小学校5年生の夏休み、僕はそう誓った。
夏休み明けに提出した作品は、しばらくのあいだ教室や廊下に展示されることになっていた。

図工は得意であるはずなのに、僕は工作の類で褒められたことがなかった。
考えられる原因はただ一つ。
本気を出していなかったからだ。
これまで自分は、遊びへの欲求に任せ、宿題の類には最低限の時間しか割いてこなかった。
しかし傷ついたプライドは、内に眠っていた創作意欲と承認欲求を覚醒させた。

僕は子供部屋に寝そべり、天井を見つめながら考えていた。
一番目立つためには、圧倒的な「何か」が必要だ。まずタミヤの組み立てるだけのキットや、小さい扇風機など、ほかの奴らと被るものでは駄目だ。
そうでなくとも、ほかの作品に埋もれてしまうような大きさでは目立たないだろう。

僕ははっとして起き上がった。
大きさ――そうだ、誰よりも大きいものを作ろう!

母に材料費をもらい、「ドーゼン」という日曜大工用品店に向かった。
そこで厚めの板やベニヤ板を買い込み、自宅マンションに戻った。
父の工具箱を引っ張り出し、さっそく「巨大棚」づくりに取りかかった。

マンションの各フロアには貸倉庫が並んだエリアがあり、その前の廊下ならほとんど誰も通らないので、僕はそこで作業することにした。

メジャーで寸法を測ったり、鉛筆で線を引いたり、のこぎりで切ったり、釘を打ったり、失敗して抜いたり、毎日着々と作業を進めていった。

10日ほど経ったとき、自分の背丈に並ぶほどの棚が出来上がっていた。
その表面は、仕上げに塗ったニスによって光沢を放っている。

これは、目立つぞ……!

圧倒されているクラスメイトたちの顔を思い浮かべながら、僕は勝利を確信した。

二学期がはじまり、僕は渾身の力作を連れて家を出た。
巨大棚を運ぶのは骨だった。亀の甲羅のように背中に担ぐ以外に方法はなく、思うように歩くことができなかった。歩を進めるたびに、中板が背中に擦れて痛かった。その痛みと疲労により、途中で何度も休憩をとらなくてはならなかったが、希望が力を与えてくれたおかげか、遅刻することはなかった。

仲のいい友達が「お、でかい」と声をかけてきたが、初日の反応はそれくらいだった。
まあいい。正式に展示されるのは明日からだ。

翌日、クラスのみんなが提出した作品は、教室や廊下のロッカーの上に並べられていた。

とうとう、僕の作品の前に、クラスメイトたちがひれ伏すときがきたのだ。
巨大棚は、廊下のロッカーの上にあった。

「な……」
その姿を見て、僕は絶句した。

棚はある。確かにある。
だが、僕の棚に、ほかのクラスメイトたちの作品が飾られているのだった。

モーターがむき出しになった車、紙の粘土で作られた人形、小さい扇風機――。

巨大な棚は目立つどころか、完全にカモフラージュされていた。

ロッカーに並んだ作品たちの中に、見事なまでに馴染んでしまっている。
いや、むしろ子供たちの作品を飾るために学校側が用意したものであるかのようにさえ見えた。

「板倉俊之」と書いた紙片は貼られている。しかし棚の一番下から申し訳程度に飛び出しているだけだ。これでは誰も気づかないだろう。

たぶん先生に悪気はない。限られたスペースに全員ぶんの作品を展示するためには、やむを得なかったのかもしれない。
そうだとしても――あんまりだ。

僕はあまりの衝撃に、先生に抗議することも、これは自分の作品なのだと叫ぶこともできなかった。

展示期間中、巨大棚そのものに焦点を合わせていたのは、きっと僕だけだった。

やがて、それぞれ作品を持ち帰る日が訪れた。
僕はふたたび亀の甲羅ように棚を担ぎ、校舎の階段を降りる。

友達はみな、棚のことについて触れてはこず、
「一回家帰ったら校庭に集合ね!」といった内容の言葉をかけて去っていった。

下駄箱の横に棚をいちど下ろし、靴を穿き替える。

「板ちゃん、それなあに?」
棚を見ながら、クラスの女子が訊いてきた。

一瞬にして、僕の怒りは頂点に達した。
「それなあに?」だと!?
遊ぶ時間を削り、何日もかけて、誰の力も借りずに作り上げた力作だ。
あったんだよ。ずっと、ロッカーの上に。きみだって見ていたはずだ。毎日、視界に入っていたはずだ!
それを、「なあに?」だと……?

いつのまにか、怒りは虚しさに変わっていた。

「ん? 棚……」
とだけ言って、僕はそれを背中に担いだ。

絶望が力を奪うのか、絶望そのものが質量を有しているのか、とにかく持っていったときよりも、棚は重く感じられた。

その後、棚は子供部屋に設置され、少年ジャンプや「ゾイド」などの収納に役立てられた。しかし胸の中から、虚しさは消えてはくれなかった。

十数年が経ち、僕はお笑い芸人になっていた。
テレビのトーク番組に出演したとき、この絶望の話を披露した。
共演者もスタッフも観覧のお客さんも、大いに笑ってくれた。

そのときようやく、あの棚をつくってよかったと思えた。

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