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私の靴裏が銀杏臭い理由

銀杏と書いたときに読み方が「いちょう」なのか「ぎんなん」なのか判断できないのは厄介な表記である。判別するひとつの基準として匂いにまつわるときは「ぎんなん」となることが多い。

さて、この時期の仙台は銀杏臭い。
あまりに直接的な表現だが、この時期の仙台を知っている人にはわかってもらいたいが、あまりに直接的すぎる臭いなのだ。

仙台駅周辺では銀杏並木が各所に見受けられ、その中でも特徴的なのは周辺がビルに囲まれていたり、場所によって陽当たりにばらつきがあることだ。
その結果色付きに差が生まれる。

これが何を意味するかというと、銀杏を踏んでしまう確率につながってくる。
銀杏を落とすタイミングもばらけて、シーズンを通して長い期間銀杏が落ちている。もしくは潰れた銀杏が道路にこびりついている時期が長い。

ゆえにこの時期の仙台市民(主に職場の最寄駅が勾当台公園のサラリーマン,OL)の靴裏は銀杏臭い確率が高い。
室内で「あれ?なんか臭うな?」と思ったときは決まって銀杏を踏んできたせいだ。

そんなわけで都市の中にある銀杏並木は、家や職場に臭いをもたらすリスクを抱えている。

しかしそれをわかっていても、あまりに綺麗な銀杏は撮ってしまわずにはいられない。

もうすっかり落葉し、冬本番が迫っていることを予感させる。

銀杏の葉っぱで敷き詰められた絨毯。
つい近寄って踏み入りたくなるが、それは同時に無防備に銀杏を踏みに行くことと同じなのだ。
でも仕方がない。臭いと引き換えに撮りたくなる光景が目の前にある。

話しは変わるが、数年前noteを書き続けていた時期があった。
どういうモチベーションがあったか今となってはぼんやりとしているが、その日に何か必ず書く前提で過ごしていると日常に起こる些細なことでも敏感になる。日常にちょっとだけ緊張の網を張っておくだけでもいろんなことを捉え、頭で組み立てたり考えることは楽しかった。

また毎日、とは言わずともなんでもいいから書くことは意識しないとなと思う。それは結果的に日常の機微を捉える眼と思考の部分に繋がるはずだから。

書かない間にnoteもイメージがすっかり変わった気がして、今目立つのはhow to系だったり、ビジネス的な話しだったり、「誰かのためになる」義務感背負ったみたいな記事が多くて。
そんなイメージで全く誰の役にも立たない内容にしたかっただけのタイトルです。

いい写真撮る人は書く文章も視点も豊かなことが多くて楽しみだったんだけどな。少しばかり嘆いても仕方ないから、自分が書き続けることで他に書く人がまた増えることを願うのが一番か。

そんなわけで最後は潰れた銀杏のようにぐちゃっとした内容になったが、日々の機微な話しをできれば写真も合わせて、また書いていきたいねという気持ちでした。
もう「銀杏」の読み方の判別は慣れたよね。



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