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ムージル『愛の完成』

ムージルの文学の最終目標は、「合一」という概念で表されます。彼は生涯を通じてこの境地を書き表すことを追求しました。彼の小説『愛の完成』では、主人公の女性が自身の愛を完全なものにするために一時的な不実に向かう過程が描かれます。この物語では、愛の解体、罪の解体、そして自他の解体という要素が重要な意味を持っています。

物語の中で女性は夫と愛し合っており、互いに心の通じ合った満ち足りた生活を送っています。しかし、それでも完全な愛には達していないと感じるのです。女性は遠く離れた土地に行くために娘の面談を控えた時、自分の中に秘めた予感と決意に向き合います。彼女は行きずりの男に抱かれることを決断し、二人の愛をより深くするために自らの愛を遠ざける道を選びます。

ここに、「合一」という概念の要点があります。本当に完全な愛を実現するためには、区別する愛ではなくて区別しない愛へと到達する必要があるということです。これは無償の愛や隣人愛、アガペーもまた一つの合一の形態であるのかもしれません。しかし、神の子から与えられた愛は行きずりの男と関係を持つことを許容するだろうかという問いが生じます。許容するかもしれませんが、それは罪による慈悲的な許容という側面もあるでしょう。また、罪人こそが完全な愛にたどり着けるのかという点も曖昧です。ムージルの言いたいことは、愛の完成には罪や特定の規範を超えて、自他の解体が必要であるということです。

彼女の行為によって、夫との狭義の愛は遠のき、新しい意味の愛が生まれる準備が整います。この過程において、本質的な罪の意味は失われ、新たな認識の下で自他の区別が解体されます。女性は夫との距離を置くことによって、孤独な状態に達し、その領域で自他の区別が消失し、合一の境地が現れるのです。ここで行われるのは徹底的な解体の作業ですが、これは合一への過程であることに矛盾はありません。狭い意味での世界の構築を否定し、万物が根源に還って一つになる本質に迫ろうとする試みなのです。

ムージルは合一の境地を言葉で完全に捉えることはできないと考えています。合一に触れる瞬間は言葉を超えた体験であり、仏教の涅槃に近いと形容されます。全てが別の全てと対応しつつも同一性を持たないため、世界は可能性の領域で満ちています。愛の完成は一瞬であり、根源に触れることができるため、永遠のような持続的な状態ではなく、瞬間的な体験として現れるのです。

ムージルの作品は深い哲学的洞察を伴いながら、愛と人間の複雑な関係を探求しています。合一の境地は理性では完全に理解できない謎めいたものであり、彼の作品はその境地を追求する奇妙な旅路を描き出しています。

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