人生いろいろ

もしも自分が役に立てることがあれば幸いだが、あんまりそうでもないことも多いとき、祈るしかないし、まあ究極のところはただ祈るだけだ。


人がそもそも生きるということは、苦悩することと嬉しいことがセットで訪れることが決定していて、どんなことも全部苦悩がつきものなので、苦悩を取り去ろうというのは概ね無理と言えるくらいに難しいものだと言える。

難しいのは「人である」という認識を持って生きる、つまり自我というものを持ったままならば、わたしたちは苦しみを手放すことが出来ないということなのであって、「まあ人というよりも、量子の集合している偶発的現象」とまで考えられる存在となってしまえば、認識もそもそも人という立場から持つことを手放すことになるわけで、そうなれば苦しみは確かに消え去る。


ただ、そんな仙人みたいな存在になる人、なりたい人、なれる人、ばかりではないので、人間は苦しみながらもがきながら、そしてテンションが上がる嬉しさを通じて次のひっかかる罠を自分で仕掛けながら、生存本能が自分に仕掛ける様々な感情的なストレスに翻弄されて生きているのだろうと思う。


37歳おじさんになって、16歳〜25歳くらいの自分の振る舞いを振り返ってみたときに、「なぜか他人よりもなにか目立っていたい気持ち」が行動の根底にあったことを思い出すが、それは生来の性格もさることながら、若いうちにオスとして性的アピールをするような、そういう性質のものだったようなそんな気がする。

いや勝手にその思考パターンに当てはめているだけかもしれんけど。

ただ動物だってそうだと思うんだけど、子供のうちはそんなに力を誇示しようとしたりしないで、じゃれあってばかりいるけれど、青年期になればサカリもくるわけで、ただ衰退期になって老齢になれば、そこまでサカリを示すわけでもないし、それってとても自然な行動なのではないかと思う。


存在を認めて欲しいが認められない。承認欲求もまた人間が生き残るに連れて備えることになっていった、ひとつの生き残りシステムだと思う。それによって、それぞれが自分の強さを誇示しあい、争い合うなかで、本当に強いものが多くの種を残し、子孫を残していくことによって、生き残る可能性が高まっていったのだろうから。

人間がどんどんその効率化を高める能力を発揮しきった結果、他の国々との競争力を保つためには人口を増やしていく必要があるし、その人口を増やすための施策としては、まずは生まれた赤ちゃんを死なせない医療を発達させることと、それに加えて強いものの種を残すのではなく、一夫一妻にして、どんどん結婚して産めよ増やせよと奨励し、それが人としての本懐であると刷り込むことで、圧倒的な人口爆発をもたらすことができると描いた先人がこれまでの歴史の中にいなかったとは思えない。きっといたはず。


まあでも、そんな風潮があったからこそ、生まれたのがうちの親父さんをはじめとする団塊の世代なわけだし、その存在がこの世の中に生まれたからこそ、ぼくもまたこの世に生を受けて、いまブログを書いてたりするわけで。

そのことが嬉しいとか嬉しくないとか、それを考えるのが本当に嬉しいのかどうか、それは本当によく吟味しなくちゃいけない課題かもしれない。
生きる意味を考えたほうがいいのかというと、ぼくは正直なところ本当にどの答えが正しいとは言い切れないし、意味があるかどうか知らんが、いま生きているということは確かだと思うとは言うだろう。


ただ、もう考えてしまったのなら逃げられないかもしれない。そうなったらもう一緒に考えていくから、それに悩んで、足を突っ込んで、どうしようもないような絶望感にひとりでハマり込んでるのをみかけたら、それはきっと声をかけたくなるだろうと思う。いや、まあけっこう大丈夫やで、と。


さいきんほんと、みんないろいろあるなーと思う。SNSがこうしてみんなの状況を、正直に発信してくれる人の限りにおいては、いろいろあるんだなーと教えてくれ、学ばせてくれて、気づかせてくれるのである。


ずっと嬉しそうな人もいないし、ずっとしんどそうな人もまあいない。


すこし自虐的な人に限って言えば、「自分が定めたイメージ像になるために一生懸命に不幸になるエピソードを目を凝らして探し続けて、見つけたら、宝物のようにそれを抱きしめて、それで自分が不幸な存在だと示す」という不思議な感情を行動に変えている人もいないではないが。


大概の人が、嬉しい時期もあればしんどい時期もあり、ずっとしんどくもないけど、ずっと調子に乗ってもいられないっていう、山あり谷ありなのだ。

人生楽ありゃ苦もあるさ、なんてのは大河ドラマの水戸黄門のテーマソングで歌われた歌詞であったほど当たり前のことで、そんなの今さら言われなくてもわかっているようでいて、これが自分の番になると分からないものだ。


いよいよなにが言いたいのか分からん。


ただ、人生には波というものがあるし、これは短期的にも中期的にも長期的にも、同じような波形(フラクタルというんだけども)をして、繰り返している。これは間違いない。だから、勝負師がいうことは間違いない。


「勝てるときもあれば、負けるときもある。ただし、必ず勝てるときに必ず大きく勝ち、負けるべきときには小さく負けつつ、自分のリズムにつながる行動をし続けることだ。ただし勝ち過ぎると賭場から追い出される。」


だから、勝ち負けが全てではないけど、勝ち方も大事だし、負け方もとても大事だと思うのだ。負けていても、どうしても勝てない時でも、必ず自分の未来につながる行動をとり続けることができるはず。気持ちを落ち込ませるヒマはないし、落ち込んでいても、自信も得られず、波も寄せられない。


人で生きていくと決めた以上は、その法則を知っておいて損はない。

急に読者の方からサポートもらえてマジで感動しました。競馬で買った時とか、人にやさしくしたいときやされたいとき、自暴自棄な時とか、ときどきサポートください。古民家の企画費用にするか、ぼくがノートで応援する人に支援するようにします。