進むべきものが進むだけ

体感的に感じて学び、身体で生きるというのはどういうことなんだろうってことをずっとさぐってきた中で、「そういうことですよね!!」って思えた考え方が、ラマナマハリシの教えでした。インドの旅に行って、たまたまとは言い切れないくらいの出会い満載の旅を経て、生きるということがどんなことなのかを確かめられ、それが言語化されていたことを知ったのはラマナマハリシの言葉をまとめた一冊の本を読んだ時でした。


まだまだ全てを言語化できていませんが、要はこういうことです。


インドの旅でまとまった価値観ではありますが、概ねそのように動いてきただけのこと。あらゆることは受動的でいいと僕はずっと思っていました。

受動性に特化して生きることで、能動的に計画をたてて生きることによってが生み出されることのうち、「期待が生まれる」ことと「立てた目標がゴールになる」ことのネガティブさから解放されるためです。


期待が生まれることのネガティブさ

「期待が生まれる」ことのネガティブさは、それを計画通りにできないとイライラしてくるということです。うまくいくいかない、というのが計画通りかどうかという基準になってしまい、それが優先されること意外に興味を持ちづらくなります。

確かに目標通りには進んでいない、けれどとても意義深い時間・経験・学びはあるものです。その都度立ち止まればそれを味わえる人もいますでしょうが、多くの人は立てた目標には最短距離で進みたくなるものです。

なので人にも状況にも寛容さがなくなります。余裕がなくなり、厳しくなってしまい、人に対しても強い態度をとってしまうこともあるでしょう。それが最優先として生きる人がいても全く問題ありません。しかし、僕はそれをやると後悔しますので、やりたくありません。

計画を立てたことで目標が生まれ、その計画通りにできそうだという期待が生まれ、期待が裏切られるとイライラする、期待通りにいくとホッとするという割に合わない心理状況を生み出したくはありません。最短距離でゴールをするから幸せなのかどうか、それは本当のところどうなのかわからないのではないかと思うのです。だから、期待を生み出さないように心がけます。


立てた目標がゴールになることのネガティブさ

計画を立ててしまうことが絶対ダメなわけではなく、立てた目標がゴールになってしまうと、多くの場合はその目標を達成することが最終到達点になってしまうことになります。それの何が悪いのか。

それがつまらんから嫌だ、ということです。

計画通りにやって、計画が達成できた。人生は計画通りに生きるのがいいというのは、計画通りに生きることが大好きな人たちの満足感を基準としたものであって、それは全ての人に当てはまるわけではありません。なぜかって僕はそんなものに興味がないからです。

むしろ予想もしていなかったことが起こることがあって、人生はワクワクとドキドキが織り混ざった豊かなものになるわけです。自分では思いつかなかったようなことが起こって、世界がなにをこの身体で体験せよと伝えようとしているのかがメッセージとして届いていることを理解するわけです。

言語で丁寧に教えてくれることはありません。体験を通じて、あれ?なんか怪しいぞ、なんかあるぞ?こんな偶然ってなんかおかしいぞ?って、そんな体験の中にメッセージが隠されている。それに耳を傾ければ、この身体で感じて、観て、味わうことの素晴らしさに感動できるわけです。

それが面白い。
ありがとう、生まれて良かった!生きてて良かった!
そう思えるような態度でこの人生に向き合っていく。

そのためには、何かのために計画した、効率的な進め方にはそんなに興味が持てない。チームプレイだからね、それなりにそうしたい人の見解に合わせられないわけじゃない。けど、それはもう仕事だし、いやむしろ作業だと思うのです。計画を実現するための最善手を打ち続けるだけの作業。


そうしたくないから、積極的な受動性を持って生きていたいのです。するとこういうことがきっとわかってくる。

人間がどうしたいとかに関わらず、物事が進むんだってことに。もちろん僕や誰かがどうしたいとかに関わらず、起こることが起こり、進むことが進み、どうしようもないことがどうしようもなくなるだけ。

そう思って生きてます。

急に読者の方からサポートもらえてマジで感動しました。競馬で買った時とか、人にやさしくしたいときやされたいとき、自暴自棄な時とか、ときどきサポートください。古民家の企画費用にするか、ぼくがノートで応援する人に支援するようにします。