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人は、人がわからない時こそ、寄り添うことができる。

怒りは顔を上気し、怒鳴り、拳を振り上げ不満に苛まれる。
喜びは諸手を挙げ、笑い、時に美しい涙を流して満たされる。
楽しさは軽やかに、喜びに似て非なる高まりと集中をもたらす。
哀しみは不意に訪れ、震え、痛ましい涙にうちひしがれる。

……はたして、誰が貴方に教えただろうか?

……それは、貴方が獲得した感情である。

 感情は学習だ。上記の例も、誇張されたものだと感じる人もいれば、感情として理解できない人もいるだろう。感情の発露は、あくまでも学習した末に、個人が選んで行う”行為”なのだ。だから、上記の感情がしっくり来る人もいれば、誇張だと感じる人も、理解できない人もいても良い。そのどれもが、貴方にとっての正解であり、誰かにとっての間違いである。そして貴方にとっての間違いであり、誰かにとっての正解なのだ。
 まずはそこから、話を始めよう。

 例えば、我々が涙を悲しみだと理解するのは、その人生において自身が苦しみ涙した経験があるからだ。得られるはずだった喜びを無碍にされ、抗えぬ悪意に人権を踏みにじられたり。あるいは代えようのない存在を失う経験や、荒れ果てた心の荒野には自身の涙しか濡らすものが無いこともある。こらえようのない胸の痛みが心を折り、喉の奥から鼻腔を塞ぎ、嗚咽となって漏れ出る物。あるいは、あるいは……人間が産まれ持った、生きる希望を叫ぶ産声かもしれない。
 なんにせよ、我々は近しいこらえがたい泣いた経験から、”悲しい”と言う感情をそれとなくすり合わせて、そう呼んでいる。

 同様に、喜び、楽しみ、怒り……我々は生理的現象からか、あるいは社会的な他者との交流を経て、そういった”行為”をお互いに見合うことで、感情と行為を結び付けている。それは、”言葉”の性質として揺るがしようのない事実である。

 このようにして、我々はあくまでも人間にとっての”感情”は個々人の人生において学習している”行為”だ。そう冷静に理解していれば、”大人”になって理解する。

 彼の”涙”は、悲しみから来ているのか?
 と疑うことに。

 ”疑う”のは悪いことではない。むしろ、感情を理解する際には良い事だ。なにせ、「彼が泣いているのは、〇〇だから泣いているのだ」と、何も考えずに決めつけるより、よっぽど彼に寄り添っている。

 ”疑う”ことは、彼がなぜ泣いているのかを、本当に理解する最初の一歩だ。それを理解するためには、彼の生い立ちを知らなければならないし、その涙は家族由来なのか、友人由来なのか、はたまた作品由来なのか。泣いている根拠を考え始めるきっかけに違いない。

 そして、理解するためには自身の言葉の定義も振り返るだろう。涙が”悲しい”のか、”嬉しい”のか、”悔しい”のか、それとも……と。その”感情”を探る旅程は、自分を省みて考えるしかないからだ。

 だから、安心して疑っていい。

 ……しかし、この大切な一歩を”疑う”と言う単語で締めるのは、いささか”切ない”気持ちになる。疑うと言う単語は悪い意味だけではないが、相手への猜疑心や敵視を少なからず含んでいるように聞こえるからな。そうだな、言い換えるなら……

 だから、安心して寄り添っていいのだ。
 彼の”涙”は、悲しみから来ているのか?
 と。


#一塚保

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