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開演前に必ずトイレに行く。しかも、2回!

私は映画や演劇が大好きなので、しばしば劇場や映画館に行く。そこでいろんな作品を鑑賞することが多いのだが、それらを見る前にひとつ、どうしてもやっておかないといけないことがある。それは、トレイに2回行くことだ。客席に座ってから作品が始まるまで、まあ、どんなに長くても30分くらいのものである。だが、私は必ずトレイに行く。しかも、2回!

もちろんそれには理由がある。今日はその理由について書く。

話は突然、今から40年以上前の話に戻る。「小劇場ブーム」なるものが真っ盛りだった1980年代。当時、20代前半だった私は、いろんな劇団を観るために様々な劇場に通っていた。その日も某劇団の公演を見るべく、とある小さな劇場にいた。下北沢の小劇場ザ・スズナリの客席に座っていた。

当時は特に、この劇場はたいてい桟敷席になっていた。つまり、客席に椅子は置いてなくて、観客は座布団を敷き詰めた畳の床に体育座りをして、舞台を観た。そんな時代の話である。しかも小劇場ブームである。この日も定員を遥かに超える観客が、そんな畳敷きのフラットな客席に寿司詰め状態で座っていた。私もその中にいた。

ただ、ひとつだけ気になることがあった。開演前の私は、軽い尿意があったにも関わらず、人ひとりが通ると一杯になる細い劇場廊下にある小さなトイレの定員はとっても少なくて、しかも混雑していたせいで開演前にトイレに行けなかった。そして、やや心細いままに公演が始まった。

やっかいだぞ、と思った。なぜなら、寿司詰めの桟敷席ということは、畳が何枚も敷かれただだっ広い空間に人が詰まっているだけの状態である。つまり、人が通るための通路がない。そのため、通常の劇場とは違い、暗転中に客席の外に出ることが簡単に出来ない。でも、この日の公演が面白かったせいもあり、私はそのうち尿意のことも忘れていた。

ところが、開演して1時間が過ぎところになると、状況が少し変わってきた。不規則ではあるが、ときどき尿意が襲ってくるようになったのだ。そのせいか、妙な冷や汗がたびたび流れた。しかもそんな汗が私の皮膚の上で乾くたび、私の身体を冷やした。公演は相変わらず面白い。だが、この頃になると私はただただ祈っていた。なんでもいいから早く終わってくれ、と。

でも、この日の舞台はとても面白かった。面白い、尿意、面白い、尿意…と、面白さと尿意が尽きることのない追っかけっこをしているうちに、開演時間からそろそろ2時間を超えた。だんだん集中力が落ちてきた。身体が不自然に震える。私の身体のいろんな機関が必死に尿意と戦っているのだ。もう駄目だ。事故が迫っている。そして、大事故が起こる前に、何か対策を考えなければ大変なことになる。正直、もう舞台を見ているどころではなかった。

ところでさっき、客席には通路がないと書いたが、実は、一本だけそこには通路があった。上手側、つまり、客席から見て右側、客席後部にある人ひとりが通れるサイズの入口扉から舞台まで、幅20cmほどの狭い通路が客席の中に通っている。が、これは正確には「客のための通路」ではない。これは、本番の直前に劇団関係者の指示で、客席扉から登場した役者が舞台に登るために作られた「役者が通るための花道」だ。

しかし、その頃の私にはもはや一刻の猶予もなかった。これを使おう!チャンスは次の暗転だ。暗転中にこの通路までたどり着いて駆け抜ければ、そこには廊下に抜ける扉がある。その向こうには、私を優しく包んでくれるトイレが待っている!もう、これ以外の選択肢は考えられなかった。

やがて、舞台が進み、私の待ちかねた「暗転」が来た。舞台と一緒に客席も真っ暗になった。暗転よ、長く続け。そう念じつつ私は、小声で「すいません」「すいません」と呟きながら、四つん這いになって狭い通路まで進んだ。さらに、通路には客はいないので高速ハイハイで駆け抜けた。猫のようなポーズで暗闇の中にある客席の間の狭い通路を進んだ。このまま、このままあと1mほど進めば廊下に抜ける。そう、そのための扉がある。

その時だった。四つん這いの私の顔に何かがぶつかった。直後、真っ暗闇の中に強烈な光が急に落ちてきた。意味もわからず、私は顔を上げた。そこには、強烈なスポットライトを浴びた男が、派手な衣装で立っていた。その顔には記憶がある。少し前まで舞台に立っていた男だ。そう、この舞台の役者の一人だ。さっき舞台袖に消えたばかりの彼が、再び舞台に登場するために、そこに立っていたのだ。

そんな彼の足に、謎の四つん這い男の顔がぶつかっていた。そんな役者の瞳に、見上げる私の顔が映っていた。私は謝っている。彼は戸惑っている。そして、スポットライトに照らされた彼と私を、客席中のたくさんの瞳が見ていた。

さて、どうする!?

一瞬のち、私は反射的に土下座した。謝罪したかった訳でない。いや、気持ちとしては謝罪したかったが、この時は謝罪したかった訳でない。彼に次の行動に出てもらうためにはこれしかないと発作的に考え、そして行動したつもりだった。この気持ち、通じろ!と力強く念じながら。

すると!

役者は軽く床を踏みしめた直後に突然ジャンプした。さらに、ジャンプした役者は土下座男の背中をひょいと飛び越えて、1メートルほど向こうの花道に着地、そのまま駆け抜けて舞台に飛び乗った。気持ちが通じたのだ。ちゃんと伝わったのだ。嬉しかった!でも、私はまだ喜んでる場合ではない。それよりも大事な使命が残っていた。土下座した私は顔だけを上げると、そのまま再び猫のポーズで花道を駆け抜け、そこにあった扉を開けて廊下をダッシュ、トイレの中へと飛び込んだ。あの時の私にはもう、トイレのことしか頭になかった。

あの時、花道で私の背中を越えさせてしまった役者さん、ごめんなさい!あの日以来私には、劇場や映画館で守るべき新しいルールが出来た。そう、作品を見る前に必ず、絶対に、いや、どんなことがあろうともトイレに行く。しかも、念には念を入れて、2回!

2023-02-12
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#昔話 #下北沢 #スズナリ #トイレ #小劇場ブーム


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