ブラック・ビューティー
不気味に黒光りする、ブラック・ビューティーがやってきたのは、先週のことだった。近所に新しく開店したディスカウント・ショップでママが買ってきたのだ。
新しい洗濯機の名前である。
ママはブラック・ビューティーがやってきて、ご機嫌だった。
「このブラック・ビューティーは高性能で、なんでもきれいにしちゃうの」
ぼくは上機嫌なママに水をさす気はなかったので言った。
「よかったね、ママ」
ママの目がキュッと三日月のように細くなって、キラリと光ったような気がしたが、きっと気のせいだろう。
「服が汚れてこまるわ」
思い出せば、たしかにママはよくこぼしていた。幼稚園児の妹、エリカは草むらや泥んこ道のなかを歩くのが大好きで、雨の日の翌日など、わざわざ水たまりを求めて歩くほどだった。うっかりころんで、ずぶ濡れになって帰ってきたこともある。
「どうして水たまりのなかに入るの! 服を汚してはいけないってあれほどいっているでしょう!」
ママはカンカンになって怒ったが、エリカは一向に気にする様子がなかった。
その日、エリカは友だちのうちにお呼ばれして、ブラウスやスカートにシュークリームやケーキのシミをたっぷりつけて帰ってきた。
「あれほど言ったのに、またこんなにしてきて!」
ママはプンプンして大声を出すと、エリカを抱え上げた。そしてブラック・ビューティーのなかにひょいと放り投げてしまった。あっという間の出来事だったので、ぼくには、何が起こったのか、よくわからなかった。ママはさっとスイッチを入れると、ブラック・ビューティーを回転させた。
がらがらがら。
がらがらがら。
なかにいるエリカごと洗濯をし始めたのだ。どのくらい時間がたったのだろう。ブラック・ビューティーの動きが止まった。ママはブラック・ビューティーのなかからエリカを取り出して、
「みごとな洗濯だわ。完璧よ」
たしかにエリカはきれいになっていた。ママはキュッと三日月のように目を細めて微笑むと、満足そうに言った。
それからだった、異変が起こったのは。草むらや泥んこ道のなかを歩くのが大好きだったエリカは、そういうことに一切興味を示さなくなり、食べ物をこぼして洋服にシミをつけて帰ってくるようなこともなくなった。
ぼくはママの、キュッと三日月のように細めた目つきと、「みごとな洗濯だわ。完璧よ」という言葉を思い出し、心の底からぞっとした。
ママにとって、エリカがきれい好きになったのは、望ましいことだったのかもしれないけれど、ぼくにとっては、エリカがエリカのすがたかたちをした別人になってしまった気がしたのだった。皮膚が焦げるような、いやな感じだった。
夜、ぼくがベッドのなかでうとうとしていると、パパとママの喧嘩する声が聞えてきた。階下から声が聞こえてくる。
「今夜は残業、ないから、早く帰ってくるって言った。言いましたよね?」
ママが言った。
「し、仕事上のつきあいだよ」
パパが呂律のまわらない口調で言った。きっとお酒を飲んできたのだ。
「一昨日もでしょう?」
ママは怒気を殺した声で言った。
「男にはつきあいというものがあるのだ」
パパの決まり文句だ。
短い沈黙。
「わかっているよ。そんなに睨むなよ。おれだってちゃんとわかっているんだから。勘弁してくれよ」
パパが気弱に言った。
「うそばっかりッ!」
そのとたんに、ママは鋭い口調で全否定した。
「ぎゃー!」
突然、パパの声がした。
ぼくは心配になってそっと覗きに行った。逆さまになったパパの白い足がダイコンのようにニョキッと出ているのが見えた。パパはブラック・ビューティーのなかに頭からすっぽり入って、足をばたばたさせていたのだ。
ママがスイッチを入れ、ブラック・ビューティーを回転させた。
がらがらがら。
がらがらがら。
ブラック・ビューティーの動きが止まると、ママはパパを取り出した。どこもケガをしている様子はなかった。酔いも消えてしまったらしく、赤い顔もしていなかった。むしろ別人のようにシャキッとして、とても爽やかな表情をしていた。
「仕事が終わったら、ササッと帰ってきて子どもたちの相手をする」
パパは胸を張って言った。
翌日からパパは本当に夜の六時には帰ってくるようになった。家族全員で食卓を囲んで夕食を食べるようになり、ママは目をキュッと三日月のようにして微笑んだ。
ぼくはパパに学校の話をした。友だちのことや担任の先生のことや、通学路の途中にいるブルドッグについて話した。ときには、いっしょにテレビゲームをやったりした。たしかに楽しかったのだけれど、何だか何かが間違っているような気がした。パパがパパじゃなくなったような気がしたのだ。
「ほらほら、テーブルにいっぱいおかずをこぼしている。気をつけてって言ったでしょう。この前も言ったわよね?」
ママが言った。
「ごめんなさい」
ぼくはあやまった。すぐに。ブラック・ビューティーのなかに放りこまれたくなかったからだ。
食事中に料理をたくさんこぼしすぎる、とママにしょっちゅう注意されていた。でも、ぼくは料理をこぼしたくてこぼしているわけじゃない。こぼれてしまうのだ。箸をつかえないわけではない。スパゲッティーのときだってこぼす。これは癖のようなもので、仕方がないことなのだ。そう説明してもママはわかってくれなかった。
ぼくはできるだけ細心の注意を払って、気をつけるようにした。
ママがテーブルのうえをドンと叩くと、料理の器がテーブルから数ミリ、ピョコンと飛び跳ねた。本当だ。
その夜は、ぼくとママしかいなかった。エリカは幼稚園のお泊り会で、パパは遠くに出張だった。
「またこんなにボロボロとこぼして、いったい何度言ったらわかるの?」
堪忍袋の緒が切れたようにママが大きな声を張りあげて叫んだ。
「ごめんなさい」
ぼくはあやまったのだが、今回はそれだけでは済まなかった。
「こっちにきなさい」
ママがいって、手招きした。
「なぜ?」
ぼくは尋ねた。
ママの目がキュッと三日月のようになって細く光っている。
「口答えをしない。だまっていうことをききなさい」
ママはきつい口調で言った。
「いやだ」
ぼくはそう言うと、逃げ出した。けれども、狭い家のなかだ。逃げる場所もなく、ママはすぐにぼくの行く手を塞いだ。
「こっちにくるのよ」
ぼくは足をバタバタさせて抵抗したのだけれど、ブラック・ビューティーの前に連れていかれて、ひょいと持ち上げられた。
「どうするの、ぼくを?」
「洗濯するのよ」
「洗濯してどうするの?」
「いい人間にするの」
ママは例の三日月のような目つきのままで、冷たく言った。
「そんなの、間違っている。嫌だ」
ぼくは言った。
「子供のお前に何がわかるというの」
「わかるさ。こんなの、ただのわがままだ」
「何?」
「ママの傲慢だ。思いあがりだ」
ぼくはなおも足をバタバタさせたが、ママは苦にする様子もなく、「おとなしくブラック・ビューティーのなかに入りなさい!」
ママがそう叫んだとたんに、ぼくは両足でママの首を挟んだ。ママが大きくバランスをくずしてよろけた。ぼくは床にころがった。ぼくはありったけの力をこめてママの足元を抱きかかえると、えいっと、ブラック・ビューティーのなかに頭から放りこんだ。
「何をするの?」
ママが大声をあげた。
「ママが、ぼくにしようとしたことを」
「ふざけないで!」
「そんなにブラック・ビューティーが好きなら、自分が入ればいい。ぼくはこのままでいいんだ。おかずをボロボロこぼす自分がけっこう気に入っているんだ!」
スイッチを入れると、ブラック・ビューティーが不気味な音をたてて回転し始め、うなり始めた。ママの悲鳴が聞えてきた。
がらがらがら。
がらがらがら。
ブラック・ビューティーから出てきたママは、にこやかに笑っていた。
「いいのよ、気にしないで。ごはんちゅうは、好きなだけ、おかずをこぼしていいのよ」
ママが言った。
ぼくは思わず叫んでいた。
「だめだ、そんなの! おかずはこぼしちゃいけないのだ!」
ママは、相変らずだ。ぼくたちのご飯やお弁当を作ったり、洗濯をしたり、掃除機をかけたり、買物に行ったりしている。パパは帰宅が早くなったけれど、結局、やっぱり大変なのはいつもママだ。
ぼくは子供部屋で宿題の日記を書き終えると、階段を降りて、リビングに行った。ママはいつものように掃除機をかけている。
ぼくに気づいたママはキュッと三日月のように目を細めて、笑った。
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