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ムシュー


 時は過ぎてゆく。
 時代は変わる。

 紙の本と同じように、DVDも、やがて消えていくのだろうか。そんなことを考える。

 たとえばAV(アダルトビデオ)である。かつてAVはレンタルビデオショップで借りるものだった。なぜなら、高価すぎて、視聴者である若者には、手が出なかったからである。
 みんな借りていた。
 私の友だちなど、小さなレンタルビデオの店長と仲良くなり、AVの情報を仕入れていたくらいだ。
 やがてセルビデオがあらわれ、値段も手ごろになり、個人でも入手が可能になった。
 メディアもビデオからDVDに変わった。
 それでもレンタルしている人は、依然としていた。
 いまでもいるだろう。

 ビデオショップであれ、販売店であれ、店員の手を介す。それは、同じである。
 そこには、感情があった。こもごもの感情、たとえば羞恥心、とか。

 いまは、どうか。

 AVはネットを通じて、PCで購入できる。
 サイト経由のダウンロードは、人目に触れない。恥ずかしくない。
 この恥ずかしい、という感情、後ろめたいという感情は、AVというものの存在を理解するうえで、大事である。
 レンタルショップで、AVを借りるとき、恥ずかしいという感情を抜きにしては、語れない。

 いまは、自宅のパソコンで観ることができる。それは(おそらく)、恥ずかしくない。

 そこで失われてしまった感情のことを考える。

 それらの感情を抜きにしたAVとのつきあいが、男子(の性欲)をどんな世界に導いていくのだろう。

 私にはわからない。
 昔は、コミュニケーションのツールがなかったので、AV(あるいはエロ全般)に対してさまざまな感情が渦巻いていたが、いまは、コミュニケーションのツールの発達のおかげで、そんなさまざまな(余計な)感情を、すっとばすことができる。

 感情は経験である。
 感情を積み重ねていくことで、強くなる。よりタフになる。なれる、こともある。
 自販機でこそこそ隠れて買ったエロ本、のれんをくぐって借りたAV,それをいい思い出にしている男性は多いと思われる。

 話は戻るが、現代では、ネットで、ちょっと工夫すれば無修正のAVを観ることができる。
 かつて無修正ビデオを手に入れることは、違法の網をかいくぐることと同義だった(違法という点では、いまも同じだが、当時は感覚的にもっとずっとリスキーだった)。
 友だちの話だが、新宿にあるその手のビデオショップに行くと、ビデオのリストを見せられ、購入したいビデオをオーダーすると、身分証を人質に取られて、店員は、別ビルに保管されているビデオを取りに行き、持ってきたという。
 それくらい気を使っていたのだ。

 これから紹介する「ムシュー」という小説は、そんな時代背景を舞台にしている。

 ハードボイルドタッチのミステリだが、無修正AVを扱っている。そのような内容である以上、オブシーンな表現が出てくる。
 ご注意ください。


                  *


 季節は真夏だったが、私は、晩秋の落葉のように凡庸で退屈な仕事を地味にこなしながら、日々をすごしていた。それは、私が望んだことでもあった。人生は汚いものだ。そのなかで生きていて、汚れないわけにはいかない。だが、できるだけ汚れないように避けて生きていくことはできるはずだ。長生きはできないかもしれない。だがしたくもないのだ。
 生きることはつらい。つらすぎる。だから、それでいいではないか。

                  *

 きっかけは、一枚のDVDだった。
 ある日、交通課の永瀬が私の所属する刑事課にやってきて、DVDのパッケージをデスクに置いた。彫りの深いマスクに風のように爽やかなで甘い笑顔。低い声。水際立ったイケメンである。高校時代は、マスコミのスポーツ欄をにぎわす有名なスポーツマンだった。永瀬が歩くと、女が騒ぐ。永瀬がいるところ、女のざわめきが絶えない。高校時代からそうだった、と私は思う。
「おい、クドン」
 永瀬が声をかけた。
「グドンっていうな」
 私は視線をあげずにいった。
「いっていないけどな」
「いや、いった。いま、いった。たしかにいった」
 私は大根おろしのようにいやみをなすりつけるようにして、しつこくいう。私と永瀬のあいだでは、一種のじゃれあいのようなものだ。
「悪かったよ、九呑」
 パソコンをまえにして報告書を作成している最中だったが、目をあげた。
「これを見ろ」
 永瀬が小声になって、私の耳元でいった。
「梢のムシューのDVDだ」
 梢、つまり芹名梢は、私の元恋人だった。ムシューとは、無修正という意味である。つまり、裏ビデオだ。そんなDVDが出ているなんて知らなかった。梢には、身体に二つの特徴がある。すぐにわかる。パッケージの写真は、間違いなく梢だった。ベッドのうえで、巨乳を見せている。陰毛もはっきりと見えている。注射器のアップの写真が出ていた。梢が泡を吹き、白目を剥き出しにしている写真もあった。「取扱い注意」「危険物、触るな」というコピーが赤字で、筆のような活字で印刷してあった。正規の流通のルートで販売されているDVDではない。コンピュータソフトのおかげで、プロとまではいかないが、限りなく販売されているものに近い印刷のパッケージが素人でもつくれる。それがかえって秘かに流通する裏DVDっぽいワイセツな効果を生んで、隠微な劣情を刺激する。アンダーグランドで、人気を呼んでいるようだったのだ。
「どこで手に入れた?」
 私は尋ねた。
「車上狙いから押収した品物のなかに、これがあった」
「証拠品、持ってきても大丈夫か?」
「かまうものか」
 永瀬は吐き捨てるようにいった。「おれは、観る気がしないけれど」
「あした返す」
 私はいって、そのDVDをデスクの引き出しのなかにしまった。 

 アパートに帰ると、コンビニで買ってきたしょうが焼き弁当をたべた。空箱をゴミバコに投げ捨てた。それからお茶のペットボトルを飲み干すと、すーっと息を吸って吐き出し、ブルーレイデッキの電源を入れ、おもむろに梢のDVDを観た。九十分あった。監督や女優、制作者の名前は、どこにも入っていなかった。
 ムシューDVDである。陰毛や女性器はもちろん、挿入されているところも、当然、くっきりと映っているが、内容は予想をはるかに超えて過激だった。高級ホテルのスィートルームのような部屋で、撮影しているようだった。窓は、一面ガラス張りで、きれいな夜景が映っていた。最初、梢は、笑顔だった。短いインタビューがあって、楽しそうにはきはきと返事をしていたが、急に恐怖で顔がこわばった。髪の毛を振り乱して、逃げようとしている。髪の毛をひっぱられ、頬を殴られる。腕をつかまれると、もう一度、頬を打たれた。おとなしくなると、注射器を手渡された。抵抗すると、また頬を殴られた。梢は、二の腕をベルトで縛られた。注射器のなかには、液体がはいっている。覚せい剤のようだった。男が、舌をのばして、梢にキスをした。かたつむりの這ったあとのような銀色の唾液が口のなかにあふれ、粘り着いた。梢の胸に触るでもなく、腕をのばすでもなく、キスを延々とつづけている。毛むくじゃらの男の手がのびて、梢のブラウスのボタンをはずし始めた。下着まで一気に脱がす。梢の瞳は濡れたように潤み、トロンとしている。まったくの無抵抗で、あっという間に裸にさせられた。覚せい剤がまわっているように見えた。陰毛はもちろん、性器もはっきりと見えている。ピンク色ではなかった。お世辞にもきれいとはいえない、黒々とした大陰唇だった。
 梢の巨乳は男の手で、無造作につかまれても弾力があり、すぐにもとにもどった。屈むと、さかさまになった活火山のような乳房がよく見える。男は、梢を四つん這いにさせ、尻を突き出させた。舌をのばし、アナルを舐め始める。永い時間をかけて、ねっとりと。丁寧に。男の唇からは泡立った唾液がしたたる。梢は背中をのけぞらし、額に深いしわを寄せていたが、あげた声はうれしそうだった。男は身につけていた衣服をすべて脱ぎ捨てると、だらりとした性器を梢の口もとに持っていき、フェラチオをさせる。男が四つん這いになり、梢があおむけになって、男の性器を口にくわえさせられた。女性器がカメラに向かってぱっくりと大きくひらいている。夜景を背景に、窓ガラスに映ったセックスしている梢の顔をこれみよがしに、見せつけるように、後背位で突く。梢は大きな声をあげた。快楽を訴える叫び声なのか、悲鳴なのか、区別がつかなかった。男はけだものように、大声をあげる。梢は、さまざまな体位を取らされてやられ、最後には、白目を剥き、口から泡をふいていた。死んだように動かなかった。本当に死んでいるかのように見えた。
 男は、撮影中は始終、赤色の覆面を頭からすっぽりとかぶって顔を隠していた。覆面には、目だけ、三角に穴があいている。部屋のなかには、梢と男、そして撮影者の三人だけのようだった。撮影者もおなじように、覆面をかぶっていたが、赤色ではなく、黒色である。カメラは、泡を吹いてじっとして動かない梢の裸体を舐めるように撮っていき、いきなりプツンと切れて、画面がまっくらになって終わった。
 私の目になみだが薄く浮んだ。突然やってきた、時雨のように。
 私は、死体のように動かなくなった梢の表情を凝視した。

 翌日、朝いちばんで交通課の永瀬のデスクにいった。
「たしかに梢だ。間違いはない」
 私は、封筒に入れたDVDをそっと渡した。
「場所を変えよう。ここではその話はできない。コーヒー、飲むか」
 永瀬はいって、廊下の奥のスペースにある自動販売機のところまでいった。まずいコーヒーを飲む。
「車上狙いは、どうやって逮捕した」
「現行犯だ」
「警察が駆けつけたのか?」
「車の持ち主だ。忘れものを思い出して、もどってきたとき、偶然遭遇した。もみあって、取りおさえたということだ」
「犯人と話をしたい」
「それはムリだ。交通課の管轄だ」
「そこをなんとかならないか」
「車上狙いを刑事課の人間が取調べをするなんて、上司が納得しない。別件で、大義名分があればべつだが」
「いつか、こんなことになるんじゃないかと思っていた」
 私がつぶやくようにいうと、永瀬はちらりと複雑な表情を見せたが、なにもいわなかった。
「車上狙いは、このDVDをどこで手に入れたんだ?」
「犯人は、被害者の男のものだ、といっているが、被害者は否定している。犯人は、その日に、連続して何件か荒しをやっていて、勘違いをしている可能性がある。いまのところ、盗難届けは出ていないし、特定ができない。もともと車のなかの、安価なものばかりを狙う、けちな泥棒だ。持ち主が名乗り出ないかぎり、わからない」
「もとから車上狙いのものだった、という可能性はないのか?」
「本人は、ちがうといっている」
「車上狙いの家には、盗品があるかもしれないだろう。家宅捜索はしたのか?」
「まだだ」
「そのときは、おれも連れていけ」
「無茶をいうなよ。おまえには、おまえの仕事があるだろう?」
「だったら車上狙いと被害者の名前と住所を教えろ」
「情報は簡単には流せない」
 永瀬は不審そうな顔つきになった。「何をする気だ」
「非番のときに、捜査する」
 わたしはいった。
「自分の管轄の仕事でもないのに、勝手に動くと、あとで問題になるぞ」
「問題にならないようにやるさ。非番のときしかやらない。趣味の捜査だ」
「テレビドラマの観過ぎだ」
 永瀬はたばこに火をつけた。煙を吐き出しながら、目を細めて考えている。
「それではこうしよう。おまえがおれの課にきたときに、おれは、名前と住所を書いたメモを、床に落とす。それをおまえが勝手にひろって、活用した。おれは、おまえとの関与をいっさい否定する。それでいいか」
「もちろんだ。恩に着る」
「おまえのためじゃないさ」
 含みのあるいいかたである。
「わかっている」
 私がいうと、永瀬は二本目のたばこに火をつけた。

 警察署内の廊下を歩いていると、いくつものあわただしい靴音が背後から追ってきたので、立ち止まった。振り返った。若い婦警が二人、私を見つめるように立っていた。私のことを見ているのではない、ということは、すぐにわかった。
「永瀬さんのことで、お聞きしたいことがあるのです。九呑さんは、永瀬さんと高校で同級生だったということだし、よく知っていると思って。永瀬さんが、結婚しているって本当ですか」
「本当だ」
「でも、永瀬さん、猫と一人暮しをしているってうわさがあって、指輪もフェイクだって」
「本人に聞け」
「もう一つ。永瀬さんの奥さんか恋人には、両方の頬に、切り裂かれたような傷跡がついているって聞いたのですが、本当ですか」
「本当だ」 
「事故か何か?」
「知っているが、いわない」
 そう決めているからである。
 二人の婦警がみるみるうちに、般若のようなすさまじい形相になって、平手打ちをするように去っていった。二人ともきれいな婦警だったので、残念だとは思ったが、しかたがない。私の評判は地に落ちるだろうが、知ったことではないのだ。

 翌日は非番だった。私は最初に、車上狙いの住所に車を走らせた。老朽化がすすんでいるアパートだった。築二十年はたっているだろう。ペンキがはがれ、バリバリとベニヤ板が割れているドアもあった。階段は、アパートの外側についていた。ドアのまえに立つと、表札には、男の名前しか書いていない。一人で住んでいるようだ。私は、ドアノブをひねった。当然、ロックされている。本人は警察に拘留されているのだ。警察手帳を見せて、大家にアパートをあけさせて部屋に入る方法もあったが、あとで交通課の人間がきて、ばれて面倒なことになっても困る。べつのやり方をしようと私は思った。私の実家は、個人経営のカギ店を経営していた。店を継がせるつもりだった親は、子供のころから、カギの知識や、解錠のテクニックのノウハウを、私に徹底的に教えこんだのである。おかげで、いまでは解錠のプロだった。
 カチッと音がして、簡単にロックがはずれた。私は、すばやくアパートにしのびこんだ。
 異臭が鼻をついた。汚い下着が洗濯もされずに、山のように脱ぎ捨ててあった。飲みかけのパックの牛乳がテーブルのうえに載っていて、酸性のにおいを放っていた。しなびた野菜のサンドイッチもたべかけのまま載っていた。たべおわったカップラーメンのスープを捨てずに、カップのなかにのこしたままにしてあった。スーツが数着とネクタイが数本、ハンガーにかけてあった。日頃は、サラリーマンをしていて、ときどきこずかい稼ぎに、車上狙いをしているのだろう、と私は思った。
 この部屋には不釣合いなゴルフセットが置いてあった。これもおそらくどこかから盗んできたもので、あとで転売するつもりなのだろう。私は、ものを動かさないように気をつけながら、観察する。
 ムシューDVDを探しているのだ。一枚あるものは二枚ある。もしこいつが購入したものならば、ほかにも別タイトルのものが、必ずあるだろうと思ったのだ。趣味とはそういうものだ。デスクのうえに、キャバ嬢の名刺が数枚置いてあった。どうやらアダルトDVDは一本もないようだった。この男は、アダルトDVDは観ないか、あるいはレンタルで借りて観ているのだ。梢のDVDを購入したのは、この男ではない。たしかだ。

 午後三時近くになっていた。私は車上狙いの被害者のマンションに車を走らせた。三階建てのマンションだった。車をおりると、マンションのまえに立った。玄関の郵便ポストの名前をひととおり眺めてみる。永瀬のメモに記された室の郵便ポストには、名前が記されていなかったが、ここだ。玄関を入ると、エレベーターに乗り、室のまえまで歩いていった。解錠して侵入するべきか、どうか、まよう。
 被害者だったからだ。

 帰り際、現場の駐車場に寄ってみた。
 被害者の車の車種およびナンバーを控えてこなかったことに気がついた。それほど広くない駐車場を眺めながら、スマホを出して、永瀬に尋ねた。
「そこで、何をやっているんだ?」
 永瀬はあきれたような声を出した。
「趣味の捜査だよ」
 永瀬は、急に小声になる。「そいつは、被害者だ。犯人じゃない。なぜ被害者をさぐっているんだ?」
「おれが追っているのは、車上狙い犯でも、その被害者でもない。ムシューDVDを購入したやつだ」
「おい、無謀な捜査はしていないだろうな。正規の捜査じゃないんだし、クレームがきたときに、説明できない。おまえのために、いっているんだぞ。やりかたをまちがえると、まずいことになるからいっているんだ」
「わかっている。注意してやる」
「本当に大丈夫なのか」
「おまえが、被害者の車種とナンバーを教えてくれれば、エヴリシングOKだ」
 永瀬は太いため息をついた。「調べてまた連絡する。すぐだ」
 私はスマホを切った。洪水のように汗がふき出している。八月の上旬である。駐車場には、太陽光線を遮るものが、何もなかった。太陽は、若い女の裸のようにまぶしく、雲一つない。青空がひろがっている。スマホがブルブルとふるえた。永瀬だ。車種とナンバーを尋ねた。
「ありがとう」
 私はお礼をいうと、切った。
 ワゴン車だった。広い駐車場を見回して、探す。すぐに見つかった。おれは、歩いて近寄った。おもむろに、車内をのぞきこんだ。家族用のワゴン車のようには見えなかった。子供用のものらしきグッズなどがたいてい放りこんであったりするものだが、それが見あたらなかったのだ。
 てっきり本人の車だとばかり思いこんでいたが、そういうわけではないようだった。とすると、さっきのマンションも自宅だと思いこんでいたが、そうともいい切れないのだろうか?
 結局、マンションには侵入しなかったが、もう一度、もどってみようか、と思ったそのとき、背後から乱暴に声をかけられた。
怪訝な気分で、振り返った。
 妙に目つきに険のある、ツルツルの頭の背の高い男が立っていた。まだ若い。二十代後半だろうか。襟のついたコットンシャツに、黒のジーパンをはいている。筋肉が引き締まった体格の男で、腕っぷしの強さを買われて、やくざに雇われた、といった風体である。再放送で観た元祖ウルトラマンに出てきた凶悪な怪獣、レッドキングに似ていた。
「何をやっているんだよ」
 語気がかなり荒かった。
「見たとおりだ。何もやっていない」
 怪獣について考えてみる。怪獣の頭は、いくつかの例外はあるものの、たいてい髪の毛はない。ゴジラ、ガメラ、キングギドラ、ラドン、モスラ、ギャオス。キングコングは毛がはえているが、あれを髪の毛というのかどうかは、微妙なところだ。なにかのとき観た伝説怪獣ウーとか、フランケンシュタインの怪獣、サンダ対ガイラとかいう映画に出てきた怪獣は、髪の毛がはえていたような気がしたが。
「いま、車のなかをのぞいていただろう。何をしていたんだ」
 レッドキングが妙に神経に触る声でいった。
「だから、何もしていない、といったはずだ」
「この炎天下のなか、わざわざ歩いてきて、なかをのぞいていて、何もしていない、なんていいわけが通ると思っているのか」
 警察手帳を出したほうがいいだろうか、と私は考えた。このことが交通課に知られ、あとで面倒なことになる可能性を考えると、ためらう。そのためらいを、ひるんだと勘違いしたのか、レッドキングは、私の右腕をすばやくつかんだ。
「数日前も、車上荒しに遭ったんだ。まいったぜ、まったく」
 そのことばに、おどろいた。この男が、先日の車上狙いの被害者なのか。この体格と形相なら、車上狙いを屈服させるなど、造作もないことだっただろう。私はレッドキングにつかまれた腕を振りはらった。あお? といっておどろくレッドキングの表情を見ながら、逆に相手のあごをすばやくつかんだ。ちからをこめ、ひねる。軽くやったつもりだが、意外にこたえたようだった。
「いてっ、いてて」
 レッドキングが顔を歪め、思わず声をもらした。こわもての顔つきのわりには、ふがいのないやつだった。私はあごから手を離した。レッドキングが上着を脱いで、ワゴン車のルーフのうえに置いた。真っ赤になって、形相が変っている。目つきが尖って、鋭かった。タンクトップになった。本気になったようだ。剥き出しになった、腕に何かがついている。レッドキングが重心をかけて、痛烈なパンチを放ってきた。だが、私はヒラリとかわすと、またレッドキングのあごをつかんだ。喧嘩するつもりなど、はなからなかったのだ。自分の腕に、ジリジリとちからをこめてつぶしていく。レッドキングは、あご、あご、あご、といった。あごをつかんでいるから、あご、といっているのか、ただの悲鳴なのか、判別がつかなかった。
「砕いてやる」
 私は、冷酷にいうと、さらに指先にちからをこめた。私は華奢な体格をしているが、ちからはあるのだ。
「わ、わかった」
「おれは、ここにいただけだ。何もしていない。おまえにも、何もしていない。だろう?」
「何の話だ」
「そんなことを聞いているんじゃない。おれは、何もしていない。な?」
 私は念をおすようにいった。
「な、何もしていない」
「よろしい」
 私は、あごから手を離した。レッドキングは、あごを痛そうに何度もさすっていた。
「何を警戒しているんだ」
「警戒だ? 警戒なんかしちゃいねえ」
「そうかな。必要以上に、警戒しているような気がしたが」
「そんなことはない。数日まえに、車上荒しに遭ったから、気にしているだけだ」
 そういうことがあった直後なら、必要以上に、警戒心がはたらく、ということはある、と私は思った。
「あんた、誰だ?」
 レッドキングは手をさすりながら尋ねた。「ただものじゃねえな」
「ただものだ。通りすがりの、」
「うそつけ」
「もう一度、やるか?」
「わかった、わかった。もう勘弁だ。時間を取らせて、悪かったな」
 レッドキングは、そういうと、あの巨体のどこにそれだけの敏捷さがあるのかと疑わずにはいられないくらい、ワゴン車に素早く乗りこんだ。エンジンをさっとかけると、出ていった。レッドキングのくせに、子リスのようなやつだ。

 翌日、交通課にいって、永瀬を呼び出した。廊下の奥の自動販売機のところにいくと、小銭を入れ、紙コップのコーヒーを手渡した。
「被害者のレッドキングが、まず気になる」
 私はコーヒーを飲みながら、いった。
「レッドキング?」
「ウルトラマンに出てきた怪獣の名前だ」
「そんなことを聞いているんじゃない。直接本人に会うのは、やばいといっているんだ」
「大丈夫だ。身分はいっていない」
「そういう問題じゃない。ばれたらどうするんだ。正式な捜査じゃないんだぞ」
 私はその質問は無視していった。
「あのマンションは、自宅なのか?」
「そうだ」
「仕事は、何をやっている?」
「会社員だ」
 永瀬はちょっと考えていった。
「そんなふうには、見えない。凶暴なレッドキングにしか見えない」
「ウルトラマンの怪獣の話から離れようぜ」
 永瀬は、私の発言を手で制していった。「ひとを見かけだけで判断するのは、よくない。心優しいレッドキングだっているさ」
「いない」
 私は根拠もなく、無茶苦茶にいった。「親切なレッドキングなんかいない。レッドキングは、凶悪に決まっているさ」
「暴言だ」
「そのとおりだ。おれがそう思うだけだ。だが、おれにとっては、それだけで充分なのだ」
 永瀬はあきれたような顔をした。
「名前はなんだ」
 おれは尋ねた。
「まだ、やるのか」
「そうだ」
「とめてもムダなんだろうな」
「そうだ」
 永瀬は眉根をひそめていった。「歯黒だ」
「歯黒? 変な名前だな」
 自分の名前は棚に上げて、私はいった。
「あのマンションの賃貸者の名義がどうなっているか、調べてみてくれ」
「そこまでやるのか」
「そうだ」
 一時間後、永瀬から刑事課のデスクに電話がかかってきた。
「おれだ。さっきの件だ。マンションの名義は、歯黒だった。怪しい点は、ない。すこし考えすぎじゃないのか」
「そうかな」
 私は左右に首を振った。
「そうだよ」
 永瀬はあっさりといった。「なにか出てきたら、教えろよ」
「ああ。わかっている。いろいろ、ありがとう」
 私はそういうと、電話を切り、しばらく考えた。

                  *

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