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思考の循環


いつだって、花をもらうのは嬉しい。
「あなたのことを大切に思っているよ」と言われているようで、恥ずかしくも暖かな気持ちになる。なるんだけども、パートナーともなると、その思いやりだけでは心許ないなと思うことがある。

冬の始まり。ガンガンに焚いたストーブに背中を預け、部屋の隅でぶら下がった花束を眺めている。この花をくれた人とは、地味で終わりのない話をたくさんしてきた。

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イトグチヤが12月から冬休みに入る。
気密性とは縁遠い古民家だ。どんなにストーブをたいても室温はせいぜい20度前後。路面凍結がデフォルトなので、夏用タイヤの民は出禁となる。これはもう人を呼べる環境ではないということで、思い切って閉めることにした。

閉めるのはまあいい。お客さんがいないのは寂しいけど、それはしょうがないことだし。
でも、ここは湿度の高い山奥なので、換気と火入れをやらなければあっという間に家がえらいこっちゃになってしまう。

あちこちの村で聞こえる「空き家が増えた」という話はうちの集落からも聞こえて、周りにはもう何年も閉め切られたまま、柱が腐り、屋根が落ち、半分森に還ったような家がちらほらある。
「家は人の足音を聞いている」と言われても不思議ではないほど、ひと気のなくなった家はほんとすぐダメになっていく。

もともと新鮮な空気として外から取り込まれたはずの空気が、長い間留まることで湿気やら匂いやらを帯びてくる。そんな澱んだ空気を縁側から送り出し、囲炉裏やストーブに火を入れる。週に一度ほど、そうやって手を入れることで家が長持ちするのだから、やらない他はない。

空気を入れ替え、火を灯す。
それは家に限らず、人にとっても大切なのかもしれない。



私たちは絶えず何かを考えている。
もらった花束を眺めていたつもりが、その奥に見える窓の結露に目が移り、外の寒さに気を取られるように。
寒いってことは洗濯物乾きにくいのかな。明日コインランドリーに行って乾燥機を使おうかな、なんてどこまでも続く連想ゲームの中にいる。

家を閉め切ると良くないように、心だって閉め切るとだんだん腐ってくる。同じ景色、同じ言葉が狭い頭の中をぐるぐる回り、湿気やら匂いやらを帯びてくる。日々速度を増すこの輪廻を前に、思いやりなどあまりにも頼りない。
欲しいのは、優しい言葉ではなく新鮮な空気。空気を入れ替え、火を灯してくれる人だ。

恋人として紹介していた人を、パートナーと呼ぶようになった。
きっかけはなんでもない会話だったと思う。いつの間にか、ぐるぐると行き場を失った思考が言葉になって漏れていた。
「だから何?」と言われるかと思ったけど、その人は連想ゲームのバトンを受け取った。無論、オチのない話になった。

自分だったら絶対に思いつかなかったであろう言葉が返ってくる。新鮮な空気が入ってきたような心地とともに、いじけた円が徐々に螺旋を描いて上昇していく。
空気の循環ならぬ、思考の循環だ。


人はどこまで行っても1人。寄り添うことはできても、所詮は皮を2枚挟んだ他人同士、生涯孤独に変わりはない。
だが、この思考の循環をしているひとときだけは、自我の境界線が揺らぎ、お互いの心に触れられる気がした。


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冬休み中、こっそりお泊まりプランというものをやります。虫の声も鳥の声も聞こえない、どこまでも静かな山の中で炭が弾ける音を聴きたいという変わり者がいましたら、どうぞこちらもご覧くださいまし。



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