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 年末。仕事納めをした日、お決まりの「よいお年を」という挨拶を口にしたけれど、さっぱり実感のわかない、からっぽな響きだなとおもった。これは数年前にもおなじことを感じたような気がする。それくらい、年末感がない。わたしの2023年はさいきん動き出したようなものだし、むしろ年明けだ。

 大掃除はことしもあまりしなかった。気になったところだけちょこちょこと小掃除をした程度。こんな家には来年もきっと福は来ないだろう。でもじぶんしかどうせいないのだから、じぶんが気にならなければ究極なんでもいいやとおもうことにした。その分、日々の掃除をきちんとしようとおもう。

 なにを食べればいいのかわからず、日々を暮らしている。「おいしいなぁ」と噛みしめながらする食事をさいごにしたのはいつだろう。もともと食に対する興味関心が薄いせいで、余計に食事迷子になって、結果Uber Eatsに頼って生活している。きょうはひとりでピザを食べた。
 前々から、食事=空腹を満たすための作業、のようだと感じていた。これは実家にいたころからそうだった。ひとり暮らしになってからは、さみしさを感じるとそれを埋めるためにお腹も空いていないのに食べ物を欲してしまう。でもなにを食べたいかと問われるとなにも出てこない。ただ空腹を忘れられればそれでいい。それ以外の食事、たとえば誰かとたのしく過ごすための食事であったり、そういう「食事を楽しむ」という感覚がわからなくなった気がする。わかっていたのかすらあやしい。
 まぁ、食べていれば生きられるし、食べられるなら問題はない。贅沢な悩み事だとおもう。日々食事にありつけることには感謝しておきたい。

 2023年はただつらくて苦しくてうずまっていることが多かったいちねんだった。2022年から続く不調のせいでとても苦しい日々だった。ことし11月ごろから徐々に気力が戻ってきて、だれかと出かけたり、美術館に展示を観に行けたり、こうして文章を書いたり、ようやく動き出してきたと感じられる状態でいちねんを終えることができそうでほっとしている。こころからほっとしている。こんなにこころ穏やかに年越しを迎えられるのはいつぶりだろう。終わりよければすべてよし、という言葉があるけれど、ほんとうにそうなのかもしれない。いまがよければ、苦しくてうずくまっていた日々のこともちゃんと見送ってあげられる気がする。当時死なずにいてくれたから、推しのめちゃめちゃいいライブも観られたことだし。

 2024年はどんないちねんにしようかな。しようかな、と言いつつ、まぁなるようにしかならないのだろうなとおもっているけれど。
 2022年、2023年と動けなかった時間の分、たくさん動けるいちねんにしたいな。あとはじぶんの許容範囲を見誤らないこと。ずっと課題になっているけれど、わたしはじぶんのアクセルとブレーキがへたくそすぎる。もういい年齢なのだからせめて踏んでいいアクセルの加減くらいは覚えてほしい。

 それではすこし早めですが、皆々様よいお年を。
 すこしでもこころ穏やかで暖かい日を過ごせますように。