わたし、大人。わたし、子ども。わたし、

 若い子がフォロワーに多いためか、「大人なんて」といったフレーズを目にする。それが個人に対して不条理を投げ掛けられての発言か、それとも失礼を承知の上で申すと経験不足による理解の及ばなさか、私にはわからない。そこまで聞くのは野暮であるし、プライベートを荒らすことはしたくない。
 ただ、何となく自分の心を掠めて通り過ぎる。小川の笹舟のようなものを感じる。
 そんな私も「大人なんて」と思うことはあるのだが、如何せん私も大人である。三十路に突入しているし、子もいる。それでも私にとっての「大人」はいる。
 両親、親戚、上司……そんなところだろうか。そして「大人」というのも一種の形容化された偶像なのかもしれない。いや、アイドルとして成り立つならまだしも、それが邪神と位置づけられる人が多いような、そんな気がした。気のせいかもしれないが、私の周りで「大人」になりたいという人は見掛けない。「自立したい」人は見掛けるけれど。
 辞典から抜け出した「大人」ってなんだろう、私たちの幼い心(幼稚・稚拙という揶揄ではない)から見たら巨大な影であり壁であり、私たちの前に立ち塞がっているような、そんな気すらしてくる。
 私は母親が好きではない。良い思い出がないし、これから仲良くやっていけるとは思っていない。父親とは仲がいい、が、当時つらかった時に何処まで寄り添ってくれたか、何処まで当時の私を把握してくれていたのかという疑念も正直拭えない。そもそも言ってわかってもらえないという大前提があるので、言うにも勇気が要る。
 それから未成年の子は大概が繊細で敏感であると思う。秩序の崩壊を恐れていたのがまさに私で、母親のことを言えなかった。言ったけど知らなかったと言われてショックであったし、いや、言わないと伝わらないのは当然だが、やはりショックだった。それでも父は話が通じる人間の部類だが、昔の上司なんて経験が凝り固まって不動のトラウマ的人物だったので、抑圧されることもある。あと、言っても伝わらない、無視される、曲解される、色々。
 大人なんて万能でもないし偉くもない、ただ人間だ。私たち子どもと同等の生き物であり、私は大人と同じ生き物でもある。「大人」あるいは「子ども」を免罪符に殴り掛かってはいけない、蔑むこともしてほしくない、そう思うことはある。
 だって見ていられない痛々しい子もいる、若い人などに分け隔てなく接し、学び、吸収ししてく大人もいる。気遣いできる健常者もいれば、狡賢く、マジョリティを嗤う障害者もいる。これらもほんの一部の例であって、本当は固有名詞で括れるものではないとは思うのだけど。
 何が言いたいかといえば、私は子どもを無下に傷付ける大人になりたくないし、大人を蔑む子どもにもなりたくない。だから誰彼にああしろこうしろと言いたいわけでもない。あくまで個人の考えだ。ただもしもこの発言で誰かを傷付けてしまったのなら事情を説明した上での謝罪をしたい。特定の個人を非難したいという意図は一切ないと申しておきたい。
 これは大人も子どもも関係ない。「私」がそうしたいという意思表明に過ぎない。それだけだ。

(取り敢えずあの人なんて、と後ろ指指されぬような生き方はしたいと思う)

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