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合理的もほどほどが美味しい?

美味しくなあれ、と呟きながら鍋をかき回す。料理をする人はこうあってほしいな、と思ってしまう理想の姿です。なのですが、私はある人の言葉で、この価値観がぐらりと揺らいだ経験があります。

それは有名な女性料理家です。ある本で引用されていた言葉で、前後の文脈は不明ではありますが、彼女はこう言われたそうです。「愛情で料理が美味しくなったら誰も苦労しない」と。

美味しくなるには確固たる理由がある。失敗や挑戦を繰り返し、その原因と結果を明らかにする努力を怠るべきではない。こうした料理への向き合い方こそが愛情であり、これを抜きにした気持ちだけの働きかけに何の意味があろうか。おそらくそんなことを言いたかったのだと予想します。

その通りだと思います。だからこそ、この言葉をずっと心の端っこで温めながら、日々を重ねてきました。ただ、近頃ふと思ったりするのです。あれ?この考え方って料理というよりも現代社会と相性がいいな、と。

合理的 vs オカルト的

合理的であることには、いま、非常に高い価値が置かれています。

あらかじめ目的地を定め、そこへ向かう筋道を立てて、途中に不具合を発見すれば修正し、目に見える結果を出す。実際に社会で成功している人から指南されれば、大きく頷くよりほかありません。その力は圧倒的過ぎて、もはや権威です。怯えて何も言えないのは、合理的な反論を持てずにいるということ。勇気を持って「心」といった曖昧な言葉を投げかけてみても、両者は決して噛み合うことはありません。議論にならない、つまりお話にならないわけです。

さて、料理は合理的であるでしょうか。すこしオカルトに聞こえるかもしれない話をします。

私はときどきお鍋に呼ばれます。煮物を火にかけている時、タイマーが鳴るよりも先に「ちょっと来てくれ」と聞こえてきます。ぼーっとしていると焦がしちゃうこともありますが、呼ばれる時は大抵良いタイミングだったりします。

偶然だろうと思われるでしょう。私も半分そう思っていますが、もう一つ書きます。

お店で新しいレシピをつくった時、初めの何回かは出来上がりにばらつきが出ます。レシピを書く私の方では誰にでも分かるよう細心の注意を払いますし、つくるスタッフも初めてだけにより丁寧に作業をします。つまり練りに練った筋道を、忠実に辿ろうとするわけです。

それなのに結果がまとまらない。しかし回数を重ねるうちに、ばらつきは一つの着地点に収まっていきます。レシピに訂正を加えていないにも関わらずです。こんなときは、食材とスタッフとレシピがお互いに近寄ってくれたように私は感じます。

二つの話はもちろん、私がそう感じる、というだけことです。じゃあ話にならないね、となるのが先に書いた現代に感じる支配的な雰囲気。だからもう少し歩み寄って考えてみたいのです。

ロジカルの追求は効率悪い?

レシピは客観的なものです。「鍋に蓋をして中火で10分」というのは、誰もが活用できる基準です。対して「鍋に呼ばれる」は存分に主観的です。他人と分かち合うことはできません。目的地である美味しさにたどり着くためには、この両方に関わるスキルがそれぞれ必要です。しかし合理的な価値観が優勢な現代にあって、主観的なスキルは軽んじられているように感じてなりません。

スキルと言うからには鍛えることもできそうです。客観的スキルには論理的思考力の向上が欠かせないでしょう。一方の主観的スキルについては、自らを開くという心身の構えが大切なのではないかと思います。自分が全てをコントロールするという世界観をいったん緩め、つながりの中で自分がどう動くかを考えてみるということです。簡単に言うなよ、というのはごもっとも。鍛えがいのあるスキルです。

鍋を焦がした時は、鍋の中身や火加減などと自分とのつながりが甘かったのかもしれません。レシピのばらつきは、味をコントロールしてやろうという気持ちが強過ぎたためとも考えられます。

もちろん細かく分析していけば、すべてを論理的に説明することはできるでしょう。しかし、それらをすべてレシピに落とし込めるかと言えば無理です。食材の状況をはじめ、温度や湿度も日によって違います。その都度の対応に正解はあるでしょうが、それらをいちいち言葉で伝えようとするのはそれこそ効率的ではありません。主観的スキルは、多岐にわたる情報を網羅的に理解するのではなく、ひとつの体験として身体化する技術と言い換えることもできそうです。回数を重ねると食材が寄ってきてくれる感覚は、まさにその感じに近いです。

どちらかが正しいという話ではありません。両面が価値の優劣なく存在しており、そのバランスが何より大切なのだと思います。もしかしたら先の料理家の言葉は、当時の価値観が心や気持ちといった主観的スキルに偏っていたこと対して、釘を刺す意味合いがあったと考えるとより納得できます。料理をすることは、このバランスを見つめ直す良いバロメーターになりそうです。

私はと言えば、こんなことを長々書いていることからも分かるように、何事も理屈から入るタイプです。つまり、放っておくと勝手に客観的スキルを求めてしまう傾向があります。でも料理を続けてきて、少しずつ変わってきました。だってバランスを保たないと、「美味しい」から外れて行きがちなことに気づいてきたものですから。だから明日からもやっぱり、美味しくなあれと鍋をかき混ぜていきたいと思います。

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