目が覚めると電話がなっていた。
目覚まし時計はAM.04:27を示していた。
電話口は病院の女性で、今すぐ来て欲しいと伝えられる。
妹の出産日だ。
両親に声をかけると、あんただけでも行ってきなさいよと横向きに寝そべりながら一言だけだった。
淡白な態度には慣れていた。けれど、彼らは決して薄情ではない。そういう人たちだ。

1階に降りて、テーブルの上に置いてあったパンを取って玄関をでる。
人通りが少なく肌寒い空気の中、車に乗って駅前の病院まで少し急いだ。
異変に気づいたのは半分ほど道のりを進んでからだった。






車の進みが遅い。
渋滞に巻き込まれたとかではなく、乗っている車が明らかに前に進んでいない。
車内で循環する空気が次第に淀んでいくのがわかった。
視線をスピードメーターからフロントガラスに戻した。
そこからは矢継ぎ早だった。
よく知った最短の道を走っていたはずなのに、瞬きをすると、見たことのない路地の中にいる。
困惑の中、何度目かの瞬きのあと、さっきまで寝ていた寝室にいた。視界の端で両親は未だ寝ており、布団は出かけた時に散らかした状態だった。
慌てて時計に目をやると、おかしい。30分ほど経過している。
病院の知らせの人に電話をかけると直ぐに繋がった。「まだ産まれてないですか?!少し遅れています!!」
と舌をまくしたてる。
向こうからの返事はない。
すると電話口からは妹の友達の声が聞こえてきた。その人はだれかと電話しているような速さで相槌を打っているし、本来僕の対応をするべき人は僕に向かって話しかけていない。

そこでようやく他の回線を傍聴していただけだと気づいた。何故こんなことが起きているのか。
いつもなら不思議でたまらなく、興味を引かれただろう。だけど今は妹の出産の瀬戸際。時間を無駄にしたという自責に駆られながら、車に乗りこみエンジンをかける。時計を見ると15分経っていた。
病院まではざっと10分だ。
あと10分待ってくれ。急ごう。
何故か頭の中には産まれてくる生への喜びではなく、死への恐怖と不安で溢れていた。
妹が心配だった。
無理しすぎる人。外向きに出すのが苦手なひと。常に笑っている人。か細い外殻の中に確かな勇気を持っている。そんなやつだった。
産婦人科へも1人で行き、ほとんど話をしないままいつのまにか出産予定日なっていた。

今日、死んでしまうような予感がした。

いつもの道を走ろうと思ったけれど、なんとなく大通りに出るように運転していた。
住んでいる住宅街から車を走らせ三度ほど呼吸をし、左に曲がるとすぐそこに大通りがあった。
今度は普通に走ってくれた。
そう感じたのもつかの間、頭の中がぐらぐらと揺れ始めて、視界が霞む。
急に車の動かし方がわからなくなった。
アクセルを踏めば進む。単純なことが記憶から抜け落ちた。
大通りに出る交差点の中腹で運転席に乗った小学生が脂汗をかきながらつま先を上げて硬直している。
恐怖よりも何とかしなければと必死になるが、アクセルを踏める気配はない。何かが行動を邪魔しているような歪みにようやく気づいた。
諦めて車を捨て、3車線ある大通りの真ん中を走った。

走りながら、ローラースケートを履いたヒーローを思い出した。あんな能力があればもっと速く動けるのに。次の瞬間、急に両足首が締め付けられ、人工的な重さが加わる。足元を見ると、急いで出かけた時に履いたはずのクロックスではなく、黒いボディに蛍光緑の車輪が3個ついた、ローラースケートシューズだった。
これまでぼんやりとしていた認識がだんだん鮮明になっていく。
昨日まで過ごした普通の世界じゃない。

誰かが強く思い描いたことが現実になる世界なのかもしれない。

突拍子のない発想になんら疑うこともなく、ビルを飛び越えることにした。

高くジャンプしろ!

頭の中で3回、強く叫んだ。

さっきまで走っていた大通りは遥か下に見える。
代わりに足を置くべき場所には屋上の床があった。
靴はスニーカーになった。

着地と同時に走り出し、次のビル、また次のビルへと跳んでいく。
さながら街を守るヒーローだった。
病院はすぐ目の前まできた。
今ならなんでも出来る気がした。

このビルを走って、降りれば入口だ。今なら塀から降りる猫のように何事もなく着地できるだろう。

だが、微かに感じていた全能感はすぐに打ち消された。
また全身が重くなったのだ。
足のあげ方を忘れそうになる。

誰かが病院にたどり着けないように強く願っている。

起きてからこれまでの理解不能な出来事たちはきっとそういうことだ。
確信したと同時に、身体は動くものだと5回叫んだ。
足が1歩前に出た。そして加速度的に自由を取り戻していく。妹を想う気持ちがこれ程までに強かったことに少し驚きながら歩く。

ようやく屋上の端っこにたどり着いた。すぐ直下に病院の自動ドアが見える。
あとは飛び降りるだけ。

飛び降りるだけ。

死ぬかもしれない。

今誰かに妨害されたら。

死ぬかもしれない。

恐怖と不安が広がっていく。
さっきまで、この世界で命と呼べるものは妹だけだった。出産日に寝ている両親も、立会人がこんなに遅くなっているのにもう一度連絡しない病院の職員も、街ゆく人ですら無機質な道具のように感じていた。
それは自分にも同じだった。
いつのまにか、妹の安否と甥の様子を両親に伝えるための便利な機械になっていた。
けれど自覚はなかったし、ただ妹が心配なだけだった。

ビルから飛び降りて自分の命が危機に晒される。その直前になって、ようやく全身に暖かい血が流れ出した気がした。木々が生い茂る山道を歩いているときのような生命感が溢れた。

まぶたを開けると、さっきよりも地面が近く感じる。
飛び込むという発想に現実味が湧く。
でもきっと痛いだろうな。
死ななずにたどりつかなきゃな。

先程までの全能感からくる自信は消えていた。
その代わり、傷みを受け止めて進んでいく覚悟が浮ついていた重心を低く落ち着かせていた。

路肩に止まっていた車の屋根が柔らかそうだ。
昔見たアクション映画を思い出しながら、屋上の縁に足をかける。
目を閉じて、妹のこと、両親のことを少し思い出し。
そのまま身を投げた。



背中に大きな衝撃。
身体は反射的に転がり、開かれた両脚と左手で前かがみに着地していた。




どうやら思い描いた通りになったようだ。
でも、痛かった。
擦り傷もできて血が滲んで熱い。
だけど脚は無事だ。
まだ走れる。

衝撃と安堵をすぐにふるい落とし、病院へと入った。受付で手術室を教えてもらった。
外の螺旋階段を昇り、3階のドアを開けるとすぐそこらしい。
もう一度外に出て階段を登る。
途中、脚の怪我に気づいたせいか、もしくは何者かによる力のせいかまた足の重みが増えたが、それがしがらみに感じることはなく、2階の踊り場についた。


アギャアアァァ


3階のドアを視界に捉えたと同時に赤ん坊の鳴き声が響き渡った。
妹が死んだ。冷静に考えると甥の産声だとわかるのに、頭がいっぱいになった。
妹の断末魔。一瞬でも早く近くに居てやらねばと階段を駆け上がりドアを開けた。






そこには何故か私服に着替え、すでにベッドから立ち上がった妹と椅子に腰掛けた旦那と義父の姿があった。赤ん坊はすでに別室に移動しているようだった。

どうしたって辻褄の合わない光景への動揺は、妹が平然と生きていたことへの安堵にかき消された。

妹はまるで今から買い物へ出かけるといった風貌で、こちらを見つめる目は少しだけいつもより開いていた。
そのまま妹の元へ駆け寄り、抱きしめて泣いた。
妹はボロボロの兄の激情の剣幕に戸惑いながら、胸の中に飛び込んできた温もりを大きくしっかりと包んだ。

妹に背中をさすられながらしばらく経って視界を取り戻した。
入ってきたのとは別のドアから看護師が甥っ子を抱き抱えて戻ってきたのだった。
それを見て不意に日常を取り戻した気持ちになった。

もう一度瞬きをすると、ベッドの上から天井を見ていた。
壁に映し出した時計はAM.06:35を示していた。








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