寿命測定いたしませんか?【小説】9600文字

いらっしゃいませ。ご予約の方でしょうか?
お名前は・・・・・・はい、伺っております。
本日はご相談ですね?・・・・・・はい、承知しました。
では、お部屋にご案内します。どうぞ、こちらへ。

どうぞ、お掛けになってください。コートをお預かりいたします。
お荷物は足元のカゴをお使いください。
暖かくなってきましたね・・・・・・そろそろ桜の開花宣言が聞こえてきそうですね。
こちらは下旬ぐらいでしょうか・・・・・・暖冬みたいでしたから。

早速ですが、本日はお越しいただきありがとうございます。
まず、寿命測定のシステムからご説明させていただいてよろしいでしょうか?
・・・・・・はい、かしこまりました。
寿命測定は20歳~60歳までの方で、入院歴、手術歴、持病等のない心身共に健康な方を対象としております。
よろしいでしょうか?・・・・・・はい、ありがとうございます。
お申込みいただいた後に該当の病気を診断された場合は全額返金でキャンセル、測定中に判明した場合は返金のご対応は致しかねますのでご了承ください。
・・・・・・はい、ありがとうございます。
次に、測定の方法についてご説明いたします。

寿命測定は3ステップで行います。
1つ目は、問診票を入力いただきます。このようなものです・・・・・・そうですね、100問ほどございます。IDとパスワードを発行いたしますので、事前にご自宅で入力いただき、送信していただくことも可能です。
・・・・・・もちろんです。当日こちらに来ていただいた際に入力されても、どちらでも結構です。

2つ目は、カプセルスキャンです。このような装置に入っていただき、全身状態を測定させていただきます。
・・・・・・はい、後で直接見ていただくこともできますので、ご案内いたします。
狭いところは大丈夫ですか?・・・・・・はい、昔の・・・わかりますでしょうか、電話ボックスのような感じでございます。
・・・・・・いえ、立っていただくのではなく、寝ていただきます。後で実施に寝転んでいただくこともできますので。
よろしいでしょうか?・・・・・・はい、ありがとうございます。

3つ目は、ドクターとの面談です。1つ目と2つ目が終わった後、1週間程のお時間をいただきます。
その間にいただいたデータから測定し、その結果を元にドクターと対面でお話していただきます。
ドクターがヒアリングした結果を踏まえて、最終的な寿命を測定しております。
・・・・・・そうですね、全てAI任せてではなく、最後は少し人の判断が加わっております。
そのため、95%以上の確率で寿命を計測できていると我々は考えております。
ドクターによる分析、見る目というものでしょうか。
・・・・・・いえ、面談と言っても医療診察のようなものではなく、そうですね、カフェのような空間でお茶をしながら、料亭のような場所でお酒を飲みながらと、いくつか面談場所を選択できます。
・・・・・・はい、本当のカフェや料亭ではなく、場所はこちらです。ヒアリングルームがございますので、こちらも空いている場合は後でご案内できます。

今までのところで何かご質問はございますでしょうか?
・・・・・・はい、寿命測定をされた方の事例ですね。
気になりますよね。寿命測定をプレスリリースした時、大きく話題になりましたから。
・・・・・・もちろんでございます。ご紹介させていただきます。
では、よろしいでしょうか?


29歳 女性 ナガセ リナ 

その日は過去最高気温を更新した日だった。
熱中症警戒アラートが発動し、不要不急の外出を避けるよう、テレビではテロップが何度も流れていた。
締め切ったカーテンの裾から日差しが部屋に侵入してくる。徐々に弱々しく、カーテンを開かなかったことを呪うかのように、いつの間にか消えて行った。
私はクーラーが効いたワンルームでひとりベッドに沈んでいた。
あいつからの連絡がない休日。もう連絡が来ることはない休日。

あいつと付き合ったときから結婚を考えていた。28歳。
職場の先輩の紹介で付き合った。先輩の旦那さんの知り合いだったっけ。1つ年下の優良企業の営業マン。
愛車のMINIに乗せてもらい、いろんな場所に行った。
カップルや家族連れでごった返す夏の海。休みを合わせて行った紅葉映えるロープウェイ。ボーナスで奮発して泊まったのは、客室に露天風呂のある温泉宿だった。
MINIは私とあいつにとって、なくてはならない相棒だった。

3シーズン目。MINIで行ける場所は行きつくしたが、私は構わなかった。
また一緒に来たい。毎回思っていたから。同じ場所へあいつとMINIで。
何週間前だろう、あいつにアパートに呼ばれた。いつもはMINIで迎えに来てくれるのに。
バスに乗っていくと、バス停であいつが待っていた。
いつもと違うパターンにどこか期待してしまった自分をくしゃくしゃにして丸めてしまいたい。
かばんに入れていた折り畳みの日傘を開く。バス停からあいつのアパートまで、あいつの後ろを無言で歩いた。

アパートに着くといつも停まっているMINIがいない。
「車検?修理?」
あいつの部屋に入ると恐ろしくなった。部屋には何もなかった。
一緒にビールを飲んでいたグラス。壁は一面のっぺりとしていて、かけられているはずのスーツも、私がプレゼントしたネクタイも消えている。
一緒に選んだテレビに、ひとり暮らしには大きいダブルベッド。こんなにも広い部屋だったんだ。
「引っ越すの?」
恐る恐る尋ねているのに、微かな期待を持とうとしている自分はどこかおかしいのだろうか。

あいつは会社を辞めて、飛び立った。
世界を見て周りたい。ごめん、待っていてくれとは言えない。どこに帰るか自分でもわからないから。
私に何の相談もなく、前振りも見せず・・・いや、あったのかもしれない。
この仕事をずっと続けていくイメージが持てない。ただ毎日が過ぎて行き、このまま歳を取ってもいいのかということを自問自答した結果だ、というようなことが聞こえた。
そんなの自分だけじゃないのに。みんなそうやって生きているじゃない。
現実を見て欲しかった。私を見て欲しかった。
決定を告げられていることがわかって、すぐにあいつの部屋を飛び出したが、追ってくることはなかった。
意見を求められても、何も言えなかっただろう。
私も同じような気持ちを持っていたから。ただ、あいつが何かを変えれくれると期待していた分、惨めだった。

パソコンを開く。暗くなった部屋に青白い光が灯る。その明かりを元に電気をつけた。
たまたま目に入ったネットニュースの記事を見て、そのページから違う記事に移る。また違う記事、さらに違う記事。
何かを探すようにインターネットの世界を彷徨っている。あいつは全てを捨てて飛び立ったけど、私にはまだそれはできないから、気軽に浮遊できる場所を彷徨っている。
ある広告にマウスのポインターがとまる。
『寿命測定いたしませんか?』
寿命。私があと何年生きることができるか、生きなければいけないのか。
自分が何歳まで生きるかわかったら、私はどうするだろう。
彷徨いついでにその記事をクリックした。

アスファルトの照り返しを浴びて、空に吸い込まれていくような銀色のビルを見上げる。
ここの40階に行くと自分が何歳まで生きなければいけないのかわかるらしい。
遺伝子的なもの、これまでの行動や性格分析からあらゆる可能性を計算し、寿命を教えてくれる。
おひとり様1回。代金は、あいつとの未来を密かに願っていた自分には出せない金額ではなかった。
もういいんだ。

エレベータが開いた先は深紅の絨毯で敷き詰められている。
真っ白のドアに付いた金色のドアノブを回して、軽く、覗き込むように押した。
・・・・・・長瀬理那です。
・・・・・・はい、測定でお願いします。・・・・・・はい、ありがとうございます。
・・・・・・そうですね、日差しはだいぶ柔らかくなってきたと思いますが。・・・・・・いえ、遠くはないので。
・・・・・・はい、今日そのまま測定するつもりです。ホームページで大体のことは確認して来ていますので。

受付を終えて、そのまま部屋に案内された。部屋の壁にはインタラクティブボードがかけられており、机を挟んでイスが2脚置かれていた。
システムの説明を受け、そのままタブレットで問診票を入力する。
『あなたはトマトが好きですか?』 
トマト?・・・『はい』をクリック。
『あなたは食べ物の好き嫌いがありますか?』
『いいえ』をクリック。さっきのトマトはなんだったのだろう。
問診では『はい・いいえ』を選択してクリックすると、次の設問が出てくる。
『あなたには現実の恋愛関係において好きな人はいますか?』
『いいえ』をクリック。
『あなたには現実において家族、友人以外に大切に想う人はいますか?』
・・・『はい』をクリック。大切の度合いがよくわからないけれど、どうして真っ先にあいつが思い浮かぶのだろう。

問診票を入力し終えると、別の部屋に案内された。10畳ほどの真っ白の部屋に金色の大きな卵が転がっている。
その部屋で真っ白のワンピースに着替えた。健康診断を受けるときのようにアクセサリーを外す。
家で身につけるときは何も感じなかったのに、外で外す時、色白に似合うと言ってくれたピンクトルマリンのピアスからも、Tシャツに似合うからと言って選んでくれたシルバーのショートネックレスからも、あいつを思い出す。
そもそも、あいつがいなくならなきゃこんなところには来ていない。そう思ったが、頭を振った。
違う。私も何かを変えたいから来ているのだ。

静かに金色の大きな卵が真ん中からサイドに開いた。柔らかそうな茶色のベッドに横たわる。
天井が静かに閉ざされ、ほのかな暖色ライトに包み込まれると、とろんと瞼が下りた。

身支度を整えて、最初に問診票を入力した部屋に戻った。
・・・・・・面談の日程ですか。・・・・・・はい、その日で大丈夫です。
・・・・・・ヒアリングルームは・・・このカフェタイプでお願いします。
・・・・・・はい、女性の方でお願いします。
・・・・・・え、そうなんですね。わかりました。
次回の予約をして、エレベータに乗り込む。
1階のボタンを押し、エレベータの扉が閉まるとやっと現実に戻ってきた感じがする。
下まで着く間に違う階で数回停まり、ぽつりぽつりと人が入ってきた。
徐々に安心感で満たされていき、私はビルを出た。
もう一度40階に行くとあの深紅の絨毯と金色のドアノブがついた真っ白のドアはない気がするが、日が暮れて見上げたビルの明かりが家に帰りたい気持ちを後押しした。

それからはいつも通りに会社に行き、仕事をした。
いつか辞めたいと思っていた仕事も、測定を受けてからは気持ちが落ち着いているのか、あまりそんなことを考えなくなった。あいつのことも。
新しいこと、未知なことに踏み込んだからかもしれない。
今回のことがよかったのかまだわからないけれど、カーテンを閉め切って、ずっとベッドに沈んでいる休日は終わるかもしれない。

・・・・・・長瀬理那です。
・・・・・・はい、面談です。・・・・・・はい、大丈夫です。
最後の面談のために入った部屋は木目調のドアだった。推すとカランとベルが鳴った。

「いらっしゃいませ。こちらにどうぞこちらへ。」
白いパリッとしたシャツに茶色のタイトスカート、腰には黒のソムリエエプロンを巻いた女性が1人、私を奥のソファ席に案内してくれた。
もちろん、私の他に客役はいない。ここはカウンセリングルームなのだから。
「こちらメニューでございます。お好きなものをお選びください。」
前回、予約時に料理も提供されると聞いていたので、お昼ごはんは済ませてこなかった。
「このデミグラスソースのオムライスとサラダセットで。お願いします。」「ドリンクもございますが?」
女性の胸元で銀色のプレートが光った。『Sasaki』と書いてあるように見える。
「あ、ブラッドオレンジジュースで。お願いします。」
「かしこまりました。少々お待ちください。」
女性はメニューを下げて厨房に向かい、一見トマトジュースが注がれているようなグラスを2つ運んできた。
木目調のテーブルにグラスを2つ置き、私の向かいに座った。

女性の爪は短く品の良いベージュのマニキュアが塗られていて、指には細いゴールドの指輪をつけていた。
ショートカットの髪がかっこよく、エプロンを取って白衣を着ると、まさにドクターか研究者だ。
「トマトジュースもあるのよ?」
女性がタブレットを見ながら話しかけてくる。面談が始まったのだろう。
「トマトは好きですけど、トマトジュースはちょっと・・・どちらかというと苦手かもしれません。」
ちょっと青臭くて固形物が混ざっているような少しドロッして喉に残る感じ。
「そう?まぁ、好きな人の方が少ないかもね。二日酔いの朝とかにいいわよ。もちろん健康にも。長く生きたい?」
直球だ。

「いいえ、そんなには。80歳ぐらいでしょうか。迷惑かけずに逝きたいですね。」
ありきたりだな、と思う。今の平均寿命は90歳を超えているらしいけど、元気ならいいと思う。
進んだ医療の元でずっと寝たきりで90歳まで生きるより、まだ自分で身の回りのことができるうちにさらっと病気になって、ある程度治療して、苦しまずに。
「誰に迷惑をかけたくないの?親?は流石にあなたがその年にはいないでしょう。子供?はまだいないわね。未来の家族かな。」
確かに。もし、私がこのままひとりだとしたら、誰に迷惑をかけるのだろう。
「なんとなく、未来の家族を想像していました。いないかもしれないのに。」
「迷惑ってなんだろうね。今は必要と判断された人にはひとり1台のヘルプロボットが提供されるわね。あと、ケア施設も充実しているし。」
「でも、利用料とか高くて、全員が対象っていうわけじゃ・・・。」
机の上のブラッドオレンジジュースを一口飲む。酸味があって濃い。オムライスのデミグラスソースは負けるかもしれない。
「やっぱりまだ知られてないわよね。無償なのよ。ちゃんと保険料を払っていて、手続きすると無償なのよ。保険料って言っても、あなた会社からお給料もらっているわよね。だから天引きされているわよ。雇用形態に関わらず、何かしら給料をもらっている人は大なり小なり払っているのよ。知られていないことが社会の問題ね。」
「働いていない人は?海外にいる人とか?」
「収入がない人は保険料の減額とか免除とかの制度はあるわよ。理由にもよるけど。海外にいる人はどうかしらね。そこまで詳しくないけど、海外に行きたいの?」
言われてからあいつを思い出した。海外に行きたいわけじゃない。ただ、疑問に思っただけなのに。 

厨房から声がして、女性が席を立った。トレイに私が頼んだオムライス、サラダを2つのせて戻ってくる。
「どうぞ。温かいうちにお召し上がりください。」
とろとろの玉子にデミグラスソースがたっぷりとかかっている。生クリームが垂らされ、パラパラとパセリが散らされている。
女性はフォークでサラダのトマトを差して、大きく口を開けて一口で食べた。美味しそうに食べる人との食事は気持ちがいい。

「お仕事はどんなことをしているの?」
ヤングコーンにフォークを差しながら、女性が覗き込んでくる。言わなくても知っているんじゃないか、見透かされているような気がする。
「法律事務所で事務局業務をしています。働きやすい職場なんですが、書類の作成とかが難しくて。法学部出身じゃないのでついていけないところもあって。勉強すればいいんですけど・・・いや、勉強しているんですが向いていないというか。ずっとこの仕事でいいのか、っていうのがあります。」
この女性とは今回だけだろう。そういう人の方が思い切って話せるのかもしれない。

オムライスがおいしい。バターライスには小さく切ったベーコンとたまねぎ、キャベツがたっぷり入っている。
私はしゃべり終えるとオムライスを頬張った。
「おいしいでしょ。あなたのための出張シェフよ。・・・そうね、あなたの場合は仕事だと思って向き合っていくか、生活にしていくなら違う分野に目を向けてみることね、今のうちに。」
デミグラスソースはほどよい濃さで玉子の甘味を消していない。
私はスプーンでオムライスを崩しながら訪ねてみた。
「どうして今のうちなんですか?」
「だって、今はフリーなんでしょ。チャンスよ。あなたが何をしても誰も何も言わない。あー、言ってくるならご両親とかご家族?私は総合病院の勤務辞めてフリーになった時に呆れられたわ。」
確かに今は時間がある。お金もある程度はある。
私はあいつがいたから仕事は仕事、プライベートはあいつ、と思っていた。
そのプライベートがなくなって、仕事が生活を侵食してきているから、辛いのかもしれない。

私と面談してくれているこの女性は内科医として総合病院に勤務し、その後、企業の産業医などを経て今は面談の担当ドクターとしてここに所属しているらしい。
初対面の相手が自分のことを話してくれるとこちらもつい話してしまう。
2人しかいないカフェ。ここがビルの40階だと忘れるほどこじんまりとした空間。BGMにはジャズが程よい音量で流れている。
あいつと出会ったときのこと。MINIと出かけた思い出。がらんとした部屋を飛び出した時のこと。
私は笑っていた。

「コーヒーか紅茶をお出しすることできますが、どうなさいますか?」
どれぐらい時間が経ったのだろう。食べ終えたオムライスのお皿は下げられており、心なしかレースカーテンの向こう側が茜色を帯びているように感じる。
「じゃあ、紅茶でお願いします。」
「茶葉にご希望はございますか?」
「お任せで・・・いいですか?」
「はい。少々お待ちください。」
紅茶はいつも黄色いパックのものを買っている。茶葉にアッサムやダージリンとかいくつか種類があるのは知っているけど、飲んで違いはわからない。
だからという訳じゃないけれど、もう二度と会うこともないだろうこの女性にまかせてみようと思えるほど、この数時間は心地よかった。

キャンディという初めて知った茶葉で入れられた紅茶を飲みながら、面談は終わろうとしていた。
「今日のこの面談で・・・寿命ってわかるんですか?前回測定した結果に今日の内容が加味されて、何か変わるんですか?」
話した内容から寿命を判断される要素がわからなかった。将来に大きな展望を持っているなら長生きする、なんてことはないだろう。そもそも、そういう人は大金まで払ってこの測定はやらないと思う。
「変わるわよ。長くもなるし、短くもなる。では、しばらくお寛ぎください。」
女性は持っていたタブレットを閉じると席を立って、厨房に入っていった。

カフェを出るときもドアについたベルがカランと鳴った。深紅の絨毯を踏みしめて受付に戻る。
結果は約二週間後、メールまたは郵送で届くことになっており、メールを選んだ。
ビルを出る頃には外は暗く、街灯がついていた。
私は振り返ることなく、帰路についた。

数日前にメールが1通届いていた。
エアコンがなくても心地よい季節。新調した柔らかくて肌触りのいいカバーをかけた布団に包まれていると、幸せを感じる。
昨夜は仕事で遅くなり、職場でスナックを食べただけで夕飯は食べずに寝た。だから、朝に取り寄せておいたパンをトーストして食べることを楽しみにしていた。
きつね色より薄く焼いて、マーガリンではなくバターを塗る。今日はロイヤルブレンドでミルクティにしよう。
コンビニで買っておいたサラダの上に、トマトのくし切りを乗せる。
歌い手が歌うカバー曲をBGMに食事を済ませ、身支度を整えた。
パソコンでメールを開く。
少し胸が高鳴るのを最近始めたルーチンで抑えたつもりだが、マウスを握る手は汗ばみ、マウスの冷たさで少し落ち着いた。

長瀬理那 様
この度は弊社株式会社SJH labの寿命測定をご利用いただき誠にありがとうございます。
先日、受診して頂きました測定の結果をご報告致します。
予測寿命:95歳(前後3年程度)
・・・・・・

長い。ほっとしたのか、ショックを受けたのかわからないが、長いと思った。あと60年も私は続く。
いつ起きるかもしれない不慮の予測もできない人間の参考値でしかないと言い聞かせながら、測定根拠を読み進めた。

最後にメッセージが添えられている。あの女性からだ。
面談担当ドクターより
これは始まりです。いつから始めるかは長瀬様自身で決めてください。

パソコンを閉じて、ピンクトルマリンのピアスをつける。
用意していたキャリーケースを持ち上げて玄関に運び、スマホでチケット内容を確認した。
十分に間に合う時間だ。空港に着いたら限定のモンブランフラペチーノを飲もう。

日傘のいらないいい季節だ。
路側帯の白線の上をキャリーケースを引き連れながら歩く。
今から行く地はどんな気候なのか楽しみになった。ここよりも暖かいだろう。
結果が届く前に気持ちは整っていた。
終わりの見えない問診票。次々に出てくる設問に向き合うことで、自分を知ることができたと思う。
トマトは好きだ。あいつは好きだった。
大切な人はたくさんいるけれど、私は自分自身も大切にしたい。生きるのだから。

バス停に着くと、すぐにバスが来た。
キャリーケースを大げさに持ち上げ、邪魔にならないようにバスの奥の席に移動した。
あの玉子で眠ってから、身体の声が聞こえる気がしている。
今日はまだ大丈夫。今日はダメ。抗わずに部屋着に着替えて過ごす。

駅に着いて、ロータリーに停まっていたリムジンバスに乗り込む。
運転手さんがキャリーケースをバスのトランクルームに次々と詰め込んでいく。
あの女性は次はどんな人と話しているのだろう。
また老後や仕事の話をしてから自分の身の上話をしているのだろうか。
あの時間は面談、ヒアリングというか、カウンセリングのようだったと思う。
小さい頃にビー玉を飲み込んだかもしれないことまで話してよかった。
スキャン結果からビー玉の反応はどこにもなかったようだった。

第1ターミナルの掲示板を見上げる。13ゲート。南ウィングに向かって歩き出した。
怖がらなくてもいい。始まるのだから。


いかがでしたでしょうか?・・・・・・いいえ。
気になりますか?・・・・・・はい、かしこまりました。

この方はもちろんまだご存命です。測定されてから数年経っていますが、今も当時の会社にお勤めです。
・・・・・・いえ、ご結婚はされていないようです。
・・・・・・そうですね、測定前と後で大きく人生を変えようとする方もいらっしゃいいますが、この方のように変わらず日々をお過ごしされる方もいらっしゃいます。
変わらずと言いましたが、それは我々の調査可能な範囲であって、それ以外の心理的なところで何か変化がおありになったと考えております。
ご自身のやりたいことだけをする、それで一生を謳歌できる方は少ないのではないでしょうか。
事後調査では、この方のようにプライベートな時間、楽しみを得られる時間を充実させて寿命が尽きるまでの活力にされる方が多い傾向にあります。
もちろん、測定を受けて大きく人生を変えようとされた方もいらっしゃいます。
・・・・・・そうですね、測定結果でもいくつかパターンがございます。
ご自身の想定より寿命が短かった方、特に10年以内と測定された方は、その方の履歴からは計算できないようなことをされることがあります。
逆に、この方のように想定より長かった方は、一見は変わらない生活を送られている報告があります。
・・・・・・そうです、一見です。

・・・・・・はい、他にも事例はございます。お客様のご要望に合った事例をご紹介することもできます。
あと、事例をご提供いただける方は代金の割引サービスがございますので、よろしければご協力お願いいたします。
・・・・・・はい、寿命が短い場合の事例ですね、かしこまりました。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?