2013年8月27日の雑文


 ああ、僕はもう全く何を書いていいのかわからなくなってしまった。
何を書いてもそれは僕の書きたかったことではないように思える。
悪魔に願い事をかなえてはもらうのだけれど、欲しかったものが形になるとそれは急に世界で一番いらないもののように思えてくる。後に残るのは死後魂は地獄へと薄いダンボールに他の欲深い魂たちと共に梱包されトラックに積まれて地獄へと発送される旨了解されたしと書かれた契約書だけなのだ。


 こんなもののために僕は魂を売ったのか?残るのはいつだってこの問いだけなのだ。


 僕が何のためにこんな文章を書は誰いてるのか、理由は誰も知らない。西洋風に言えば「神さまだけが知っている。」。僕は言葉と言葉をつなぐ役割を果たす糸や糊については、ひどく安物で貧弱な機能しかもたないものしかもっていないので、僕の文章はあるいはひどく読みにくいものになっているかもしれない。何がどうなってそんな羽目になったのか、僕には皆目見当もつかないけれど、僕の文章を読んでいる人々には、本当に申し訳ないことをしていると思う。


 今だってつっかえつっかえキーボードを叩いて文章を作っているのだ。僕は喉からも文章がなかなか出てこなかったけれど、キーボードからも文章がうまく出てこないのだ。


 昨日はもっと文章がうまく作ることができた、と毎日思っている気がする。おとといはもっとヘンリーミラーのように文章をかけたし、その前の日は井原西鶴のように美しい文章が書けた。その前はもっと…。僕は毎日のようにこんな妄想にとらわれている。結局母親の乳房にすいつきながらおぎゃあおぎゃあと鳴いている時が僕は一番詩人らしかったのだ。でも考えようによってはそれは正しいのかもしれない。あの時僕はただ求めていた。何かを。透明で僕の体の、頭のてっぺんから指先のすみずみをまるっきり満たしてしまう何かを、ただただ純粋に求めていたのだ。そこには何の見栄も、嫉妬も、はにかみも存在しない。そこにはただ透明できらきらと輝く朝露のような何かがあったのだ。そしてそれは純粋だったがゆえに、僕は何も覚えていないのだ。


 もっとすらすらと文章が書けたらどれだけいいだろう?誰だって苦悩しながら、ペン先を原稿用紙にこすりつけながら歯軋りしながら文章を搾り出しているんだ、と君は言うかもしれない。だけどやっぱり僕は自分が世界で一番文章をひりだすのに苦労しているように思える。広い牧場の中で草をもしゃもしゃ食んでいる北海道だかニーダーザクセンだかの乳牛。それが僕だ。他の乳牛はみんな狂って死んでしまった。後に残ったのは僕だけで、僕はとにかく少なくとも日々バケツいっぱい分のミルクを産出することを牧場主から期待されている。それができなければ牧場は破産だ。抵当に入っていたおよそ視界に入る全ての物は運び出され、後には何も残らない。全ては灰になり、競売に出されてしまう。だから牧場主は僕を鞭で叩いてでもミルクを出させようとする。でも出ないのだ。いくらがんばっても、鼻息を荒くしてもミルクは出てこない。出るのは涙ばかりなのだ、嘆きばかりなのだ。牧場主も泣きながら僕のまだらな体を叩きつける。でも出ない。ただ肛門から糞と小便がひりだされ、シロツメクサの肥料となるだけなのだ。僕はそれぐらい文章を書くのに苦労している。しかし僕はなぜ文章なんて書いているのだろう?


 なぜ書くのか?この問いはナイフのようなものだ。せっかく織り上げた花輪を断ち切る血まみれのナイフ。それがこの問いだ。なぜ?人はなぜそんなことを聞くのだろう?この問いが果たしてどれだけの詩人を殺したのだろう?生きていれば人は息を吐くのが当然だし、使い終わったアミノ酸は体外に排出されるのが当然だ。人が書くのは精神にこびりついたオリモノを体外に排出するためである。それが体や精神の中に次々と折り重なって腐り、固まり、もう二度とこそぎ落とすことができないような化石になってしまわないよう、まだモッツァレラチーズのように柔らかいうちに排出するのだ。そのために人は書かなければいけないのだ。理由なんて意味がない。そんなことを問うのは残酷で、無意味なことなのだ。

ああ東京。僕は今でも東京を放浪している。渋谷から新宿、高田馬場、市谷、九段下、麹町、永田町、霞ヶ関、銀座、日本橋、秋葉原…僕は町から町へと歩むさまよえるユダヤ人なのだ。キリストに情けをかけてやらなかったばかりに世界の終わりを見届ける宿命を負わされたあわれなしがない靴職人。それが僕だった。僕は幾多もの戦乱を行きぬいた末にこの世界一の魔窟である東京までやってきた。くもの巣のように地上には電線が、地下には鉄道網がはりめぐらされている。(中略)

 

 僕はもっとまともな文章を書くべきなのだ。しかるべき仕様書に沿って、あるなんらかの目的を達成させる手段として文章を扱う。それは僕の先祖の友人の友人の友人のそのまた友人であったアリストテレスがいったことである。目的を欠いた手段なんてものは搭乗者を欠いたガンダムのようなもので、決して動き出すことのないそれは手入れがされなくなった結果雑草のはびこったドックに放置され、やがて朽ちて、土の藻屑へと消えていってしまうだろう。


 僕は今現在ヘンリーミラーの悪影響を受けている。精神の莫大な流れを写し取るとめに言葉を使うのではなく、言葉のために言葉を扱っている状態だ。それはあまり健康的な状態とはいえない。それは全く健康的ではない。


 僕はせめて少女ぐらいは登場させるべきだ。流れるような、それこそ吸血鬼のような長い金髪を持った少女。牙を持っていて、…駄目だ、彼女を形容する言葉が一つも見つからない。なぜ見つからないんだろう、彼女を描き出す言葉はどこに行ってしまったのだろう?結局僕は少女一人描き出すためにも辞書を利用しなければいけないということなのだろうか?というか僕はなぜ吸血鬼は金髪を持っているなどと思ってしまっているのだろう?そんなこと、文献のどこにも書いていやしないのに。

 落ち着くんだ。僕にはミラーやドストエフスキイーのような文章はかけない。あんな統合失調症患者やてんかん症患者の書くような文書は真似ようと思って真似ることが出来るようなものではない。それはある意味賜物のようなもので、ある日突然降りてくるものなのだ。恩寵を望む時に得たいと思うのは神に対する侮辱である。我々はヨブのごとくひたすらに手を組んで祭壇の上に上ってひざをついて祈り、「それ」が与えられるのを待つしかないのだ。それまで我々凡人はスペインの農民のようにひたすら鍬と鋤を使って土を耕し、種を植え、日々の糧を生み出し続けるしかないのである。


 しかし現代という時代はなんなのだろう?地上には人々が広まりきって、もはや耕すことができる土地すらなくなってしまった。人はただ国家のためにわけのわからない苦悩、すなわち国策で作られたわけのわからない機能がたくさん盛り込まれた携帯電話を特に必要もしていない人に無理やり押し付けたり、ティッシュを配ったり、受験産業をあおったりすること、と引き換えに日本銀行券を得てそれで糧を得るばかりである。これでどうやって地に足がついているということを実感できるというのだろう?どうやって土に対して愛着を持つことができるというのだろう?というかそもそも私は僕は本当にこんなことについて悩んでいるのだろうか?

 結局のところ問題はそこだ。何について悩んでいいかわからないのだ。虚無と神がお互いの比喩でしかないという仮説が正しければ、僕は神について悩んでいるのだ。神が死んでしまったことに嘆いているのではない。「どうやっても神が消えてくれない」ことに悩んでいるのだ。

 ただもちろんメリットはある。僕は同時に悪魔をも抱えているからだ。悪魔は常に神に負ける。それはそういう設定なのだから仕方がない。悪魔が現れても、神が常にいるのだから僕の心が完全に闇に染まってしまうことはありえない。そういう利点はあるが、やはりどこか騙されてしまっているのではないか?という疑問は消えないのだ。


 駄目だ…もっとちゃんと、わかるような文章を書かなければいけない。

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