2013年9月9日の日記


 フローベール書簡を読む。非常に面白い。この面白さはジッドの地の糧やヘンリーミラーももっている面白さである。つまりあちこちに思考が飛翔して、その辻褄をあわせるかのようにきらきらとした比喩がくっつけられている、そんな文章である。夢中で読み続けてしまうのだけれど、読み終わってみると何も覚えていない、夢のような文章、やはりフローベールはそういう類の文章の使い手なのだ。


 恐ろしいのはその繊細さ、美しさ、危うさをボヴァリー夫人では完璧に押さえつけてみせたことだ。その抑圧がなんともいえない、極上の雰囲気をあの作品に生じせしめることに成功したのである。ボヴァリー夫人がこまごまとした法律の力によって追い詰められることによって作品全体にどこか「強靭さ」が与えられたのと同じように、フローベールは自らの特性を押さえつけることによって作品に「普遍性」を付与させることに成功したのではないかと思う。そして、そういう禁欲の技術を、フローベールはまさに法律の勉強を通じて獲得したのではないだろうか?なぜか私にはそう思えてならないのである。


 友人アルフレッド(その妹はモーパッサンの母親だという)、シュヴァリエ、妹カロリーヌははやくも親しい私の親友となった。ぶどう酒とパイプをこよなく愛するフローベール。ベッドに横たわる妹に荒唐無稽な作り話をして楽しませるフローベール。ナポレオンの弟の死に立ち会ったある男と、その娘たちとの交流…24歳のときの、妹の結婚とそれにともなうイタリア旅行、ジュネーブで出会ったバイロンに関わる何かと、ルソーの像…それらの感動、感激は、光り輝く宝石となって、私の宝物庫へとしっかり運び込まれた…

 私は今現在、他に西鶴の小説集、日本霊異記、フローベール「サラムボー」などを読んでいる。しかしただ読んでいるだけだ駄目だ。私にもあまり時間は残されていない。そろそろ今まで本を読んでたくわえてきた知識や経験を秩序だてて、「何か」に形成してしまわなくてはならない。何かとは何だろう?彫像だろうか?戯曲だろうか?あるいは小説だろうか?それとも建築物?究極のレシピか?…それはわからない。わからないが、やはり何かはなしとげたいと思う。私は26歳で、まだこんな夢見がちなことを言っているのである。人は笑うだろうか、けなすだろうか。しかしやはり人であるならば永遠を、そうでなくてもせめて永遠に対する、永遠に終わらない人類の憧憬を象徴した何かを、求めるのが人間なのではないだろうか?なるほど老人になればそういう気持ちは失われてしまうものなのかもしれない。しかし、誰もがそういう気持ちはかつて持っていたものなのではないだろうか?忘れてしまったからと言って、その気持ちが消えてしまったと言っていいのだろうか?若いはその青臭い未熟な気持ちに従って行動し、その記憶が老人の今を形成しているとしても?…いや、別に私は誰かを責めたいわけじゃない。結局のところ私が何をするか?したいのか?それこそが問題なのだ。生きるべきか死ぬべきか?あるいはそれ以上に…

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 昨日は全然眠ることができなかった。しかし朝は6時をちょっとすぎた頃に目を覚ますことに成功した。コーヒーは少し砂糖を入れすぎてしまったのでおいしくなかった。バターのきいたパンを食べる。テレビはあいもかわらず東京五輪開催決定のことについてお祭り騒ぎのように報道している。確かにすばらしいことだしめでたいことだが天邪鬼の私はここまで騒がれると皮肉の一つでもいいたくなってしまう。

 つらつらと文章めいたものを書いた後で昼飯の天丼を食べる。午後はめちゃくちゃだった。携帯でいかがわしい画像や動画を見たあげくにパソコンを触り、その後ベッドの上でうとうととした。気づいたらもう夕方であった。ランニングは無理だった。なぜなら(中略)

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 風呂に入る前に書簡を読み、その面白さに目覚めた。それから風呂に入り、にらとイカの炒め物、味噌汁、アジフライの夕食を食べたあとで書簡を読み続けた。そして気づいたら22時半、この文章を書いているとあっというまに23時になった、とまあこういうわけである。
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