2013年8月20日の雑文


 そうだ…俺は甘やかされた子供だ。骨の芯まで凍えてしまいそうな冷たい風にあおられながらスエズ運河を掘り続けたエジプト人の苦悩も、収穫した農作物を片っ端から地主に奪われ続けていた中世の農奴の苦悩も知らない。そんな大げさなことは言わずとも、現代のサラリーマンが感じている苦悩すらも俺は知らないのだ。なぜなら俺は幻想の企業に就職したからだ…もっとわかりやすくいうと無職だからだ。


 しかし、人々を甘やかすために、もっと人々に楽な生活をさせるために人々はがんばって戦ってきたのではなかったのだろうか?働いてきたのではないだろうか?その彼らの血のにじむような努力の結晶を、手にした俺達がこんなにも日々を苦しみながら生きているのはなぜなのだろう?そうだ、僕達はガラスの破片がちらばった廊下を素足で歩くラテン語学校の生徒のようなものなのだ。頭にはたっぷりと文法規則が入っていて、心は明日の小テストに対する不安がいっぱいで、足は切り傷で血みどろなのだ!大人たちは廊下を掃除することなど考えもしない。ただ、周りのラテン語学校よりも出来のいい生徒をたっぷりと送り出すことだけしか頭にないのだ。彼らの性根は教師ではなく、むしろ工場長とでも言った方がずっと適切なのだ…

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 港湾労働者といえば横浜だ。少なくとも俺にとっては。人にとっては港湾労働者と聞いて神戸を、あるいはサンフランシスコを、あるいはケーニヒスベルクをイメージするだろう。しかし俺にとっては港湾とは横浜なのだ…


 港湾労働者のことについてなど知らない私が、港湾労働のことについて書く資格などあるのだろうか?もちろんないと言う人が大半だろう。大して考えもせず、トラブルを避けたいがために「あるよあるよ」などと投げやりに言う奴はたくさんいるだろう。しかし、私はそんな言葉の軽い奴は求めていない。そうじゃなく、きっとこの世には心の底から「あなたにも書く資格はあるよ」と言ってくれる人はいるはずだ。…そういう人がいると仮定して、その人はいかなる理由でもって私に書く理由があると言ってくれるのだろうか?それは果たして、いかなる理由ゆえなのだろうか…?


 俺達は戦争を知らない。しかし、戦争などというものは永遠になくなるべきだ。しかし、そのためには戦争が存在しない状態でも戦争の恐ろしさについて語り続けなければいけない。俺達のような、戦争のことについて知らない人間が、決して戦争を経験することのないままにその恐ろしさを伝えていかないといけないのだ。そういうことを考えていくと、「経験していないこと」について書くことも、それほどいかれた行為とはいえなくなるのではないだろうか?


 とはいえ現時点でも戦争に従事している人間はいる。テロ組織で活動している人間も、テロ組織と戦っている人間も世界中にはたくさんいるのだ。戦争がいまだ地球上に残っている以上、彼らの話をよく聞く義務は我々に残っているだろう。…ただし、だからといって我々戦争から遠く離れている平和な国で暮らしている人間が、戦争のことについて全く語っていけないというではないはずだ。そうは思わないか?


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 真理とはうなぎのようなもので、つかんだと思ってもぬるぬると滑って手から逃れていってしまう。という比喩は使い尽くされている。しかしどうもこの比喩は真理の本質をつかんでいないような気がする。真理とはむしろトカゲのようなものなのではないか?つかもうと思えば案外簡単につかむことができる。しかしそれは実はトカゲが自ら切り落としたしっぽにすぎず、いつまでたっても本体をつかむことはできない。しかもまずいことにしっぽを手に入れたものはそのしっぽのちっぽけさゆえ、「真理なんてこんなものか」とあざわらい、それを使って一儲けしようと皆一様にたくらむのである。そしていずれ真理によるしっぺがえしを食らってしまうのである。


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