2013年8月7日「手」


 巨大な手が僕のことを押しつぶそうとしている。蝿とか蚊のように。巨人の手ならまだわかる。しかし手だけが空中に浮かんで、ばっちんばっちんと僕を標的に大地を叩きまわっているのだ。不条理もここまできたか、と僕はねばついたため息を吐き出さざるを得ない。


 僕は巨人に立ち向かったダビデのような気分でその手の攻撃をよけていった。そう、僕は涼しげな風が吹く丘の上で羊を飼いならして生計を立てている無害な男だったのだ。平和に暮らしていたのにいきなりこの手が現れて羊たちも、両親も妻も妹もみんな叩き潰してしまったのだ。


 はじめは殺したいほど憎んだ。剣や槍を持って立ち向かったが、結局やつの手に傷ひとつつけることすらかなわなかった。実力の途方もないほどの差を思い知り、僕はみじめに逃げ出すことにした。しかし手はどこまでも僕のことを追いかけてきた。不毛の砂漠へ逃げ込んだ時も、深い森へ迷い込んだときも、山間の魔法使いの村に捕らえられてしまった時も、手は僕のことを追いかけつづけてきたのだ。


 旅先で誰かと親しくなっても、すぐに手はその人を叩き潰してしまう。だから僕は誰とも仲良くならなくなってしまった。ただ悪いことばかりじゃなかった。気に食わないな、と思ったやつとはわざと仲良くして、手に殺させることがあった。道徳的じゃないね、と批判する人がいるかもしれないけれど、このくらいの役得はないとやってはいけないよ。


 今僕は北の大地を歩いている。とても寒くて、大地は雪に覆われている。手も寒さには弱いようで、心なしか元気がない。乾燥には弱い体質のようで、指先などあちこちがひび割れていて、痛々しい。あれほど剣でさしても傷つかなかったのにな、と僕はなんだかしみじみとしてしまった。


 ふと、手がまったくおいかけてこなくなったことに気づいた。おそるおそる来た道を引き返してみた。すると手が大地に横たわっているのを見た。手はどろどろの上に血まみれで、ひどい惨状であった。すでに半分は雪にうずもれていた。僕は長い棒を持ってきてつんつんとつついてみたが、微動だにしなかった。もう死んだのだ。しかし僕は特に嬉しくもなかった。手が死んでも家族や仲間、失われた時間は戻ってこないのだ。僕の髪も髭もだいぶ白くなってしまった。もう僕自身だって長いこと生きてはいけないだろう。故郷まで戻る体力も残ってないし、そこへ戻ったって何も残っていない。ここに腰を落ち着けて暮らすことにしようと思った。


 僕は近くの洞窟で暮らすことにした。長い間生きてきた経験で、食べ物を見つけるのは得意だった。冬眠している小動物などを掘り返して食べた。


 時々暇になると手の死骸を眺めた。うずもれてしまうと場所がわからなくなってしまうので、雪は時々払ってやった。笠をかぶってその手を見つめ、そして洞窟へと帰っていく。それが日課だった。



 やがて冬も終わる。春になると雪もとけ、小川が流れ始める。それなりに草木も生い茂る。冬よりはすごしやすくなった。


 しかし暖かくなったからか、手は段々腐りはじめた。どろどろにとけ、虫がたかりだす。

 僕はとても見ていられなかった。…そのはずなのに手のところへ通うことをやめることはできなかった。原型を失って、虫たちの苗床となっている手を眺めていると、なんとか不思議な感覚に襲われた。とても硬い殻に覆われたぶよぶよとしたものをつついているような。手ごたえがあるのだかないのだかわからないような感情。爽快感と不快感がないまぜになったような…


 けたたましく羽音をたてて飛び回る虫たちの内の一匹が、僕の顔にはりついた。僕はうっとおしかったのでそれを叩き潰した。見事虫はつぶれた。するとどんどん虫たちは僕の方へ襲い掛かってきた。おいおい、虫のくせに敵討ちかよ、と思いながらも、僕はとても相手することはできないと思って逃げた。


 逃げても逃げても、どこまでも虫は追いかけてきた。そして異変に気づく。まったく疲れないのだ。もうずいぶん走っているのに、まったく疲れていない。というか走っているという感覚がまったくないのに、前に進んでいるのだ。…まるで空を飛んでいるような。


 そして気づく。足がなくなってしまっていることに。足だけでなく、体も、頭も、腕もなくなっている。僕はいつのまにか手だけの存在になっていた。僕がずっと今まで憎んでいて、追いかけられ続けていた手に、僕が変化していたのだ。


 しかし今度は状況が違う。簡単に叩き潰せる虫たちに、手である僕自身が追いかけられているのだ。虫たちは大した体力もないので、簡単に引き離すことができる。しかし虫たちはどれだけ時間がかかっても必ず僕に追いついて攻撃をしかけてくるのだ。もちろん虫たちの攻撃は全く通用しない。ただうっとおしいだけだ。


 僕は虫たちを叩き潰すことはしなかった。したくはなかった。一応今のところはそう思っている。しかし何しろ退屈だ。追われているという緊張感もなければ、どこへ行きたいという場所もないのだ。しかも移動するのには飛べばいいだけなので、全く疲れない。自殺しようかとも思ったけれど、うまくできない。普通自殺というのは手を使って毒をあおったりナイフで自分をさしたりしてやるものなのだ。しかし今僕は手だけの存在だ。なかなか手で手自身を一思いに殺すということは難しい。うそだと思うのなら実際にやってみるとよい。


 今ならなんとか我慢できている。しかしそのうち、僕を追いかけている虫たちを叩き潰すようになるのも時間の問題だろうな、と僕は思う。一度やったらやみつきになって、しまいには僕をおいかけてこない虫まで標的にするようになって…でもどうしても殺せない虫というものが一匹ぐらい出てくるようになって、それを追いかけるのに夢中になって…


 まあ、そんな先のことについては今は考えられない。


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