2011年12月11日「ドレッシング」


 そこそこ裕福な国の、それなりの規模の都市、そこの平均的な集合住宅の一室に、トムとピンコという二人の男女が暮らしていた。

 二人が一緒に暮らすようになった経緯は普通と少しだけ違っていた。

 ピンコは野菜、特に生野菜が大嫌いだった。緑や赤の、色の濃い野菜は食べ物ではないといってきかなかった。うまく調理して食べさせようと思っても、彼女は決して口にしなかった。ハンバーグや、ケーキに野菜をまぜて食べさせようと思っても、たとえどれだけうまく野菜を隠したとしても、彼女は超人的な嗅覚で野菜だけをよりわけてしまうのであった。

 彼女の両親は大分苦労した。考えられるありとあらゆる方法を試した。しかしどれも無駄に終わってしまった結果、両親が最後にとった選択とは、諦めるということであった。


 今は子どもだから、体の基礎を作り上げるためにたんぱく質や炭水化物の方を優先して欲しているのだろう。成長していくにつれ、野菜もそのうち食べるようになってくれるだろう。

 楽観的な希望的観測は、ありとあらゆる手段が功を奏しなかったがゆえになかば必然的になされた。しかし彼らの考えていたことは一般的にはほとんど正しくて、たいていの子どもは、大人になれば野菜を多かれ少なかれ食べるようになるのである。…しかし彼女は20歳を超えてなお、野菜を口にすることはなかった。

 それでも彼女の体に目立った不調はなかった。野菜をとらなくても、体にとって必要な栄養素は様々な食品から摂取することができるので、
結局のところ問題ないのかもしれなかった。実際のところはよくわからない。しかし、ピンコ本人の心の内ではあまりどうでもいい問題ではなかった。

 彼女は、実は野菜嫌いを克服したいと思っていた。思っているのだけれど、どうしてもだめだった。意を決して食堂でサラダを注文してみても、いざ目の前に山盛りにされた野菜を見ると、食べる気が失せてしまうのであった。


 彼女はそんな自分が嫌いになりはじめていた。他人から見ればどうでもいいようなことにみえるけれど、「野菜を食べることができない、それも体質的な問題でなく、精神的な問題、つまりわがままで」ということが、彼女の気持ちの片隅を、常に薄暗く曇らせていたのである。


 次第に彼女は、ほんのちょっとの肌荒れや、風邪などといったささいな災難が、野菜嫌いを原因として起こっているのではないかと思うようになった。野菜を食べることができないから、あそこが悪い。野菜を食べることができないから、うまくできない。ほんのちょっとだけ、ほんのちょっとだけ。彼女は常に、「あと1ピース足りない」という気持ちを抱くようになった。そして、その1ピースは野菜なのだと、彼女は考えていた。わかっているけれど、彼女にはどうしようもなかった。


 小さな口内炎、あるいは虫歯に悩まされているような気持ちで毎日を過ごしていたある日、ピンコはトムに出会った。トムは仕事の同僚だった。ある日、会社の同僚たちが集まってパーティをするということになった。トムが住んでいた家はそこそこ広く、スペースがあるというので、彼の家でパーティは行われることになった。


 そこで色々と料理が振舞われた。サラダも当たり前のようにあったけれど、ピンコは当然のようにそれに手はつけなかった。しかし、途中で、トムが自らが作ったというドレッシングをもってきて、サラダにかけた。自信作なので是非みんなにも試してほしい、とのことだった。

 ドレッシングで野菜が食べることができるようになるのなら苦労はしない、と彼女は冷めた目で、ドレッシングがサラダにかけられるのを眺めていた。しかし、そのドレッシングの匂いをかいだとき、彼女の心の中に、それまでではありえなかったような想いが生じた。

「おいしそう。」

 それは、野菜を目の前にした彼女にとっては始めての感情だった。だから初めは何かの勘違いかと思った。しかし、そのドレッシングの匂いをかぎながら、それがかけられたサラダを眺めていると、「それを食べてみたい」という欲求が体の中から次々とあふれでてくるのを彼女は確かに感じた。


 彼女は戸惑った。最初は結局のところドレッシングがおいしそうなだけなんじゃないか?とも思った。しかしすぐに思い直した。今までどれだけおいしいと評判のドレッシングやソースをかけても、サラダをおいしそうと思ったことなんてなかった。だからこれはまぎれもなく、「私は生まれて初めて野菜を食べたいと思っているんだ」。そう彼女は認めざるをえなかった。


 認めてしまうと後は簡単だった。それまで頑なに野菜に手をつけてこなかった自分が嘘であったかのように、あっさりとサラダを口にした。そして拍子抜けするほどたやすく、彼女はそれを「おいしい」と感じることができた。


 彼女はたかがサラダで、たかがドレッシングで、心の底から泣いてしまいそうだった。ずっと足りないと思っていた1ピースが埋まった感動は、絶対に人に話しても伝わりそうにもなかった。

 だけどせめて、このドレッシングを作ってくれたトムに、感動の全ては伝わらなくても、感謝の気持ちは伝えたい、そう思って、台所で、メインの料理にとりかかっているトムのもとへいって、ドレッシングおいしかったと感想を伝えた。


 それを聞くと彼は本当にうれしそうに笑った。それから彼は矢継ぎ早にドレッシング作りにはかなりのこだわりがあること、あのドレッシングの製法、その製法をあみだすための苦労などを語った。それを聞きながら、ピンコは感動していた。誰にも理解されないと思った悩み、他人からはささいなことに見える欠けた1ピースを埋めるドレッシングを、こんなにも真剣に、こんなにも楽しそうに作ってくれる人がこの世にいたんだ。


 そう考えると、彼女はいてもたってもいられなくなった。止まらずしゃべる彼をさえぎって、彼の耳元で

「私と結婚してほしい。」

 とつぶやいた。

 つぶやいてから急に彼女は恥ずかしくなったので、「考えておいてね」とだけ言って台所を後にした。トムは目を点にして、まったく思考停止状態に陥ってしまった。ようやく彼女の言った言葉の意味が飲み込めるようになったのは、みんなが帰ったあと、後片付けも全て終わって、ソファーで一息ついたときだった。


------------

 それからトムとピンコは交際を始めて、そのまま結婚してしまった。実にうまのあう二人で、関係は良好だった。

 トムは明るく可愛いピンコと一緒になれて幸せだった。ピンコももちろん、毎日彼のつくるドレッシングでサラダを食べることができるようになって幸せだった。


 ある日、トムとピンコは喧嘩をした。原因はありふれたことで、その経緯もありふれたこと。離婚にまで発展するはずもない、夫婦ならば当然あるであろう喧嘩に過ぎなかった。ささいなことだったので、どちらからともなく仲直りして、二人は前の状態に戻った。

 しかし、変化はその日の夕食の時間に起きた。彼女はいつものようにサラダにドレッシングをかけて食べようとした。一回りかけてみて、何か違和感に気づく、そしてもう一回りかけて愕然とする。それでもサラダを一応口元まで運んでみて確信する。また野菜を食べることができなくなっている。

 トムの作ったドレッシングをかけても、また前のように、サラダを食べることができなくなっている。

 彼女はひどくとりみだした。ピースが埋まりきった完全な状態が長い間続いていたので、足りない状態になって混乱してしまったのである。
トムはピンコの肩に手をおいてなだめた。トムはピンコにとって、サラダを食べることができるかどうかがそれほど重要なことであるとは考えていないから、なぜピンコが取り乱すのかがわからない。実際のところ、本来ピンコにとってはささいな問題だった。ただ、そのささいな問題が、彼女にとって重要な影響を与えているというだけのことであった。


 彼女は、トムと自分との間に大きな溝を感じた。確かに彼の作るドレッシングはピンコにとって重要なものであった。しかし、ピンコはそのことをトムには話していなかった。もちろんドレッシングが、トムを好きになるきっかけだったということは話したけれど、それがどれほど彼女にとって核心的なものであったかということについては話さなかった。話してもどうせ伝わらないと思ったからだった。

 しかしピンコは今、そのことがピンコとトムとの間に大きな溝を作っていたことを痛感した。


 だからピンコは決心した。


 たとえ伝わらなくても、とにかく精一杯話すことにした。子どものころから野菜嫌いだったこと、それに悩まされていたこと。ずっと何かが足りないと思ってきたこと。足りない何かの矮小さ。そして、トムのドレッシングに出会ったときの衝撃と感動。身振り手振りを交えながら、泣きながら、彼女はトムに訴えた。

 トムは正直なところ、彼女が何を言おうとしているのかわからなかった。話のピントがどこかぼやけていて、何かはっきりしなかった。まさかピンコがそんなに野菜のことを深刻に考えていたなんて、正直実際に話を聞いてもうまく信じることが出来なかった。ただ、彼女が何かを必死に伝えようとしていることだけはわかった。だから、彼の中に一つ確かな気持ちが生まれた。それは、必死な彼女の気持ちに、100パーセントではなくても、応えてあげたいというものだった。


 彼はドレッシングを作ることにした。製法も変えて、一から彼女のために、彼女のためだけのドレッシングを作ることにした。それが正しい
ことがどうかはわからなかったけれど、それをすることにした。思いつくことがそれしかなかったからだ。彼女にそう話したら、彼女は微かに微笑んでくれた。それが彼を何よりも勇気づけた。


 ドレッシング作りは困難を極めた。

 材料を用意して、調味料の分量を少しずつ替えて、いろいろなドレッシングを作った。けれどどれも駄目だった。彼女はなんとか頑張って口元まで運んでくれるのだけれど、そこから先がどうしても駄目だった。自信作ができたけれど駄目だったときの彼の落胆は激しかったが、それ以上にそのときの彼女の悲しそうな顔が、もっと辛かった。

 彼は毎日毎日、来る日も来る日もドレッシング作りを続けた。仕事が忙しいときも、病気で寝込んでいるときも、心配する彼女にとめられながらも、どういう材料と調味料の組み合わせがいいのか考え続けた。

 しかしドレッシング作り以外のことに関しては、二人は順調だった。子宝にもめぐまれた。近所でも評判の夫婦だった。だからこそ、あと1ピース、あと1ピースをどうしても埋めたかった。二人で。

 月日は過ぎて、二人は老年に差し掛かった。野菜をほとんど食べなかったわりに健康だったピンコも年には勝てず、大病をした。医者がいうには治る見込みはないようだった。子どもたちはみな独立して、孫もたくさんできた。幸せな思い出は両手に抱えきれないほどあった。

 二人は残された時間をいつくしむように暮らしていた。しかし、彼女が野菜を食べることができるようになるドレッシングはまだ完成していなかった。トムは腰と足が思うように動かなくなっても必ず1日に1回はドレッシングを作り、それをサラダにかけて彼女に差し出した。また駄目でも、彼は全くあきらめていなかった。


 ある日、彼女の容態が急変した。すぐに病院に連れて行かれてなんとか一命をとりとめたものの、意識不明のままだった。医者は彼女が目を覚ますことはもうないだろう、と言った。


 薄暗い病室で、窓から見える月をみながら、トムは過ぎ去った時間のことを考えた。

 あの日、ピンコがサラダを食べることができなくなった日から、彼女の抱えていた欠落は彼のものにもなった。彼は必死でそれを埋めようとした。しかしそれは埋まることがなかった。しかし、その欠落以外は完璧なのだ。辛かったこともあったけれど、それも今ではいい思い出で、この年となった今ではむしろ楽しかったことしか思い出さないぐらいだった。それだけ充実した人生は、この欠落があったからこそ送ることができたのかもしれない。その欠落がなければ、それを埋めようという情熱がなければ、自分はこれほどまで人生というものに対して真剣になれなかったかもしれない。だとすればこれでよかったのだろうか。彼女はどう思っているのだろうか。自分はあの時の、彼女の必死さに、

 少しでも応えることができたのであろうか?


 彼は彼女が眠るベッドのそばに座ってそんなことを考えていた。そして一息つくと鞄の中から小瓶を取り出した。それはその日の朝作ったドレッシングを詰めたものだった。彼は彼女が意識を失ってからも毎日ドレッシングを作り続けていた。

 ベッドのそばの冷蔵庫を開くと、お見舞い品のフルーツの中にきゅうりとトマトが混じっているのを見つけることが出来た。彼は近くの洗面台できゅうりとトマトを洗い、包丁で切って紙コップの中に入れて、上からドレッシングをかけた。そうして彼女のそばで野菜をトムが食べることを、ピンコは望んでいるような気がしたのだった。

 トムは爪楊枝をトマトの切れ端に刺して、口の前まで持っていった。しかしどうしてもそれを口の中に入れることが出来なかった。匂いがとても不快だった。きゅうりも同じだった。ドレッシングの匂いが不快なのか?とも思ったけれどそうではなかった。野菜の匂いそのものがトムに不快感を与えるようになってしまっていた。

 それでも気力を振り絞って切れ端を口の中に無理やり押し込んだが、2秒と耐えることが出来ずに吐き出してしまった。ここに至ってトムは確信した。「自分も野菜を食べることが出来なくなってしまっている。ピンコと同じように」

 ふと、トムはピンコの表情を見た。彼女は実に安らかな表情で眠っていた。何かいい夢でも見ているような、そんな穏やかな表情だった。「少なくとも、もう彼女はこんな不快な思いをしなくてもいいんだ」と呟き、泣きながらピンコはきゅうりの切れ端をもう1つ口の中に押し込んだ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?