2011年8月31日の日記


 八月が終わる。

 その意味について、そのことについて自分がどう思っているのかということについて、少し考えてみようとした。しかし結局答えを出すことは出来なかった。

 尾に物が触れた猫のごとく動揺しているのか、それとも沼のほとりのがまがえるのごとく何の感情も抱いていないのか、あるいはそのどちらでもないのか、私にはわからない。


 私は特にどこに勤めているというわけでも、学校に通っているというわけでもないから、初めから夏休みなどというものは関係がない。「長期休暇」という言葉は確かにかつては私にとって宝石のように魅力を持っているものだった。しかし最早休日がインフレを起こしている私の毎日においては、休日は完全に希釈されて薄められて、価値のあるものではなくなってしまった。かつて長い休みの象徴だった夏の日差しは、ただ単に私に不快な汗をかかせるだけのものに変貌をとげてしまった。

 奇しくも明日には台風が本土に上陸するという。

 8月が終わっても夏が完全に終わるわけではない。まだ暑い日は続くであろう。しかし、区切りよく駆け込んできた台風は、何もかもぼやけている夏の毎日を幾何学模様で整理するチョークのように私には思えた。

 …と、多少うざったい文章を書いているのは、三島由紀夫の小説を読んでいてその影響を受けているからである。丁度今日「春の雪」を読み終わったところである。これからは「奔馬」を読もうと思っている。

 春の雪の感想は…正直言って感想はいいたくない。そもそも感想とは、何をいえばいいのかわからないし、私は少し法律の勉強で疲れているからだ。(今日は午前中に4時間、夜に3時間とまずまずの勉強をした。)


 三島由紀夫が小説でどういうことをなそうとしていたかということは、彼の小説をもっと多く、深く読み込んでいかなければならないだろう。そしてそれはなかなか骨の折れることなのだ。ましてや私は批評家になりたいというわけでもない。無論散発的に色々と考えたことはある。
しかしそんな細々とした感想にたいした意味はない。読んで「面白かった」。小説はそれでいいのである。そして「春の雪」は面白かった。ましてや春の雪は4部作のうちの1部に過ぎないのであるから、なおさらそれでいいと私は思う。

 さて、今日は昼に図書館で岡本太郎の両親に対する思いをつづった本を読んだ。ぱらぱらと休憩がてらに読んだものであるが、以外と面白かった。


 やはり、岡本太郎は父母を愛しく思っていた。少なくとも人間として愛していた。熱情にしか生きることのできない母を理解し、母を見守り、愛し続けた父をも理解した。

 私はむしろ、狂気のごとき度量で母を許し続けた父のほうが、太郎の奔放に与えた影響は大きかったのではないか。なんとなく本を読みながらそう思った。

 そしてやはり岡本かの子は兄の影響を深く受けていた。だから彼が夭折したことは彼女の自意識に多大な影響を与えたのだろう。太郎もなんとなくその辺のところはわかっていたのだろう。


 まあまだ全部読んでいないから、また全部読んだら感想を書くこととしよう。

 そうだそうだ。

 「豊穣の海」シリーズは浜松中納言物語という古典を下敷きにしているらしい。今度読んでみることにしよう。

 さて、ではカイジでも見るとするか。

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