権威主義ではなく、know who

 私は古今東西の文学や哲学の伝統を踏まえた上で、現代的意義のある仕事をすべく、その道のオーソリティーの書いた古典的名著に依拠して議論を展開するのだが、「哲学ではなく哲学史をしている」とか、「有名人の名前や教授のブランドをありがたがる権威主義者である」との人聞きの悪い批判も受けることもある。しかし、こうした意見は私のコンセプトを全く理解していないと言わざるを得ない。

 吉本隆明が書いているように、どんな分野でも十年修行してようやくスタートラインに立てるわけだが、権威が権威として認められるのは、その道の研究で地道に成果を上げ、専門とするテーマについて徹底的に考え抜き、それが同業者から一定の評価を得ているからである。つまり卓越した経験の持ち主という点と偉業を成し遂げたという点ではリスペクトに値する。とはいえ、意外に思えるかもしれないが、世の中には専門以外のことは知らない専門家も実は大勢いるので(理系のステレオタイプな文系批判がその典型だと思う)、決して専門家を絶対視しないのだ。

 私はノウハウ(know-how)については、試行錯誤を繰り返したり、達人から技術指導を受けたりするようにしているが、知識や理論はノウフー(know-who)という視点から講座や書物を通じてオーソリティーや経験者の意見を参考にするのである(もちろん全く参考にならないこともあったが)。

 専門知識を動員せずに根本的な問題を素朴に考え抜くことは基本中の基本だけれど、やはり、先人たちの思索の跡を辿り、伝統を踏まえた上で思索することがそんなに悪いことなのだろうか。車輪の再発明を否定したいわけではないが、時間の無駄だと思うし、その点が私には解せないのだ。


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