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ジャンヌ・ダルクとアーサー王伝説

ジャンヌ・ダルクのアダプテーション

 二〇二二年はジャンヌ・ダルク(一四一二年頃~一四三一年)の生誕六一〇周年の節目であった。そのため、諸説あるものの、本稿では主題化されることの少ないジャンヌ・ダルクとアーサー王伝説の関連性について私見を述べたい。筆者はオルレアンの姉妹都市である宇都宮市で生まれ育ったが、子供時代はジャンヌ・ダルク研究の大家である中世史家のレジーヌ・ペルヌー(一九〇九年~一九九八年)の著作を愛読していた。たまたま小学校の図書室に配架されていたからである。当時はリュック・ベッソン監督の映画『ジャンヌ・ダルク』(一九九九年)の公開や、主人公がジャンヌ・ダルクの生まれ変わりという設定の少女漫画『神風怪盗ジャンヌ』(一九九八年)がアニメ化され、ヴィジュアル系バンドのJanne Da Arcが欧米でも人気を博すなど、ジャンヌ・ダルクが世界的にリバイバルした時期と重なっていた。宇都宮市にあるカトリック松が峰教会の主任司祭であった「青い目の団地博士」ことワレ・ジャン神父(一九三三年~二〇一二年)はフランス国王シャルル七世(一四〇三年~一四六一年)の戴冠式が行われたランスのご出身で、「どうして日本人はこんなにジャンヌ・ダルクが好きなんでしょうね?」と不思議がっておられたが、日本ではフランスの歴史家ジュール・ミシュレ(一七九八年~一八七四年)の『魔女』から着想を得たアニメ映画『哀しみのベラドンナ』(一九七三年)を皮切りに、近年では『薔薇王の葬列』(二〇一三年)や『ユリシーズ ジャンヌ・ダルクと錬金の騎士』(二〇一五年)など、ジャンヌ・ダルクのアダプテーション作品が数多く制作されてきた。

 特筆すべきは、約二〇年の長きに亘って世界的なヒットを続けているFateシリーズであろう。そのスピンオフ作品である『Fate/Zero』(二〇〇六年)には、実は女性であったという設定のアーサー王(セイバー)のみならず、ジャンヌ・ダルクと共にオルレアン包囲戦やパテーの戦いに勝利し、晩年の残虐非道な行いによって、ペロー童話の「青ひげ」のモデルになったとされるジル・ド・レェ男爵(一四〇五年頃~一四四〇年)も悪役として登場する。ジャンヌ・ダルクに想いを寄せるという設定はおそらく小説家のミシェル・トゥルニエ(一九二四年~二〇一六年)の『聖女ジャンヌと悪魔ジル』(一九八三年)が発火源かと思われるが、聖杯が邪悪なものとされ、錯乱したジル・ド・レェがアーサー王をジャンヌ・ダルクと同一視するなど、大胆な改変が行われている点が本作の特徴の一つである。しかしながら、アーサー王伝説とジャンヌ・ダルクが関連付けられたのはFateシリーズが初めてではなく、意外なことに、ジャンヌ・ダルク本人が自らをアーサー王伝説と結び付けていたのである。

ジャンヌ・ダルクとマーリンの予言

 ジャンヌ・ダルクの肉声は裁判記録しか後世に伝わっていないが、竹下節子の『ジャンヌ・ダルク 超異端の聖女』(一九九七年)によれば、シャルル七世との謁見を求めたジャンヌ・ダルクを叱り飛ばした守備隊長のロベール・ド・ボードリクールに対し、「フランスがロレーヌの境界から出る乙女によって救われるという予言のことをご存じないのですか」と主張したとされる。救国のヒロインというジャンヌ・ダルク像を決定づけたミシュレが『フランス史』(桐村泰次訳)において「みんなが言っているように、フランス王国の滅亡が一人の女性、人の道を踏み外した一人の母親(イザボー・ド・バヴィエール)の仕業であるなら、その王国を救うことも一人の娘によって可能になるはずであった。これこそケルトの預言者マーリンの予言の一つが教えていることであった」と述べており、中世フランス史研究の木村尚三郎(一九三〇年~二〇〇六年)はアンリ・ギィユマン著『ジャンヌ・ダルク その虚像と実像』(一九七四年)の解説においてジャンヌ・ダルクの爆発的人気は十九世紀になってからで、「ナポレオンが口火を切り、そして本書に言うようにミシュレがこれを世界に普及させたというのが真実であろう。私たちに親しいジャンヌ・ダルクは、ヨーロッパ史を通じて典型的な国民国家の時代、英雄主義の時代であった十九世紀に、その理想像として創り出されたのであり、それ自体「近代の神話」であったということができよう」と書いているが、こうした記述から、ジェフリー・オブ・モンマスの『ブリタニア列王史』(一一三六年頃)に起源を持つマーリンの予言が近代以前の英仏両国において民衆レベルにまで強い影響力を持ち、アーサー王伝説が戦意高揚に利用されていたと考えられるのである。

ジャンヌ・ダルクとナショナリズム

 奇しくも筆者は友人の平坂純一からの依頼でジャンヌ・ダルクをシンボルとするフランス国民戦線の創始者ジャン=マリー・ル・ペンの回想録の日本語訳の校正に協力しているが(KKベストセラーズから出版予定)、氏はブルターニュの出身で、ユーサー・ペンドラゴンの「ペン」がウェールズ語で「頭」を意味するように、姓の「ペン」はブルトン語で「頭」を意味している。回想録では「ケルト民族の子孫である」と自己規定し、少年時代に生家の物置にあったジャンヌ・ダルクの石版画に親しんだことで、素朴な祖国愛が滋養されたと語るなど、フランスのナショナリズムとジャンヌ・ダルクは今なお切っても切れない関係にある。

 フランスでは英雄であるのに対し、イギリスから見たジャンヌ・ダルクのイメージはまさに正反対で、その好例であるウィリアム・シェイクスピア(一五六四年~一六一六年)の『ヘンリー六世』では、ジャンヌ・ダルクがしばしば売女呼ばわりされ、自らの生き血と引き換えに北方の魔王に仕える悪霊を召喚し、未来を予知する魔女として描写されている。

シェイクスピアにおけるアーサー王伝説と百年戦争

 『ジャンヌ・ダルクまたはロメ』(二〇〇四年)などの作品で知られる小説家の佐藤賢一は『英仏百年戦争』(二〇〇三年)において「近年発掘されて、シェークスピアの作品群に加えられた『エドワード三世』を合わせると、一連の史劇だけで百年戦争の経過を追えるほどである」と述べているが、自国の歴史に強い関心を持っていたシェイクスピアが『ジョン王』において、イギリスの正統な王位継承権者でありながら、叔父のジョン失地王(一一六六年~一二一六年)の即位により、王位に就けなかったアーサー(ブルターニュ公アルテュール一世)の悲劇を描いたにも拘わらず、アーサー王伝説を戯曲化しなかったのは本当に不思議である。とはいえ、先述の『ヘンリー六世』において死を目前にしたベッドフォード公爵に「勇猛果敢なペンドラゴンは、病の身を輿に乗せて出陣し、敵を打ち破ったというではないか」(松岡和子訳)と語らせたり、『リア王』では道化がマーリンに言及したりするなど、シェイクスピア作品からアーサー王伝説の影響を読み取ることは可能である。

 『エドワード三世』の場合、正面切っては言及していないものの、アーサー王伝説を好んだとされるエドワード三世(一三一二年~一三七七年)が人妻であるソールズベリー伯爵夫人に言い寄ったり、「陛下におかれましては、すべての望みが叶えられますよう」と挨拶したダービー伯爵に対し、「ああ、おまえがそんなことができる魔法使いであってくれたら!」(河合祥一郎訳)とマーリンのような役割を期待したりするなど、まるでアーサー王の父親であるユーサー・ペンドラゴンのように描かれている点が興味深い。

 エドワード三世は母親がフランス国王の娘であることからフランスの王位を要求し、これが百年戦争の発端となったが、森護『イギリス王室史事典』(一九九四年)によれば、エドワード三世はアーサー王の円卓の騎士にインスパイアされて一三四八年に現存最古の騎士団であるガーター騎士団を創立したとされる。その名の由来は、舞踏会でガーター(靴下留め)を落としたソールズベリー伯爵夫人の窮地を救うべく、青いガーターを自身の左脚に装着し、「この出来事を悪しく解する者に恥あれ」(Honi soyt qui mal y pense)と叫んだ有名な故事に因んでおり、瀬谷廣一訳『ガウェーンと緑の騎士 中世英文学ロマンス—ガーター勲位譚』(二〇〇二年)もこのモットーで締め括られていた。対仏戦争の総司令官であったベッドフォード公爵はガーター騎士団の一員で、『ウィンザーの陽気な女房たち』のフォルスタッフのモデルとなったサー・ジョン・ファストルフも、英仏の形勢が逆転したパテーの戦いでジャンヌ・ダルクやアルテュール・ド・リッシュモン(ブルターニュ公アルテュール三世)らが率いるフランスの軍勢に敗れ、ベッドフォード公爵からガーター勲章を剥奪されている。このことから、百年戦争はアーサー王の円卓の騎士の後継団体によって戦われたと解釈することもできるだろう。

 筆者は『アーサー王物語』を全訳した井村君江先生の助手としてキャリアをスタートしたが、本書を執筆したトマス・マロリー卿(一三九九年~一四七一年)の生涯は謎に包まれているものの、ジャンヌ・ダルクが生きた時代と重なっている。井村先生は妖精学の第一人者として著名であるが、実はジャンヌ・ダルクも在世時から妖精と関連付けられてきた。

ジャンヌ・ダルクと「妖精たちの木」

 復讐心に燃えるベッドフォード公爵から「ジャンヌ・ダルクの自然死だけはまかりならん」との命を受けた裁判長のピエール・コーション司教は、いわゆる「コラボラトゥール」の先駆者とでも呼ぶべき野心溢れる親英派の神学者で、死刑判決を下す見返りに大金を受け取るという聖職者にあるまじき行動に出ており、審問官達はジャンヌ・ダルクを「異端者」として断罪すべく、出身地であるドンレミー村の「妖精たちの木」を問題にしたのである(詳細はコレット・ボーヌ『幻想のジャンヌ・ダルク 中世の想像力と社会』(二〇一四年)を参照されたい)。当地では後にミシェル・ド・モンテーニュ(一五三三年~一五九二年)を始めとする文化人達が訪れるほど、古いブナの木が名所になっており、領主であったピエール・グラヴィエ・ド・ブールレモンという騎士がこの木で妖精の貴婦人と逢瀬を重ねたという伝説があったからだ。ジャンヌ・ダルク自身は処刑裁判で妖精を見たことはないし、マンドラゴラを所持したことはないと証言しているが、復権裁判の際にドンレミー村で聴聞会が行われ、代母の一人であった村長夫人が妖精を目撃したと述べるなど、これらの裁判資料は中世フランスにおける妖精伝承に関する貴重な記録であるのみならず、後世の作家たちに強いインスピレーションを与えてもいる。

 『アーサー王宮廷のコネチカット・ヤンキー』を書いたマーク・トウェインはジャンヌ・ダルクの小姓であったシユール・ルイ・ド・コントと名乗り、実在のジャンヌ・ダルクが否定していた妖精の木との関係に焦点を当てた架空の回想録『マーク・トウェインのジャンヌ・ダルク』(一九九六年)を著している。訳者の大久保博によれば、「トウェインは、この作品を自分の全作品の中で一番好きな作品だといい、最高のもの、最も重要なもの」と位置付けていた。『愛の妖精』で知られる女流作家のジョルジュ・サンドも最初の新聞連載小説である『ジャンヌ 無垢の魂をもつ野の少女』において信心深い羊飼いの少女の姿にジャンヌ・ダルクのイメージを投影しつつ、ドルイドや妖精ファドなど、異教的要素を織り込んだ田園小説を発表し、ドストエフスキーやバルザックから激賞されている。本作に登場するイギリス人貴族の名前がアーサー卿というのも意味深長である。

 かようにアーサー王とジャンヌ・ダルクからは、多様な論点が導き出せるが、 アーサー王伝説やジャンヌ・ダルクの先行研究は膨大で、日本語訳も充実しているため、読者の方々が拙稿で紹介した書物を直接手に取っていただく契機となれば、これに勝る喜びはない。

※本稿は『ナイトランド・クォータリーvol.31 往方の王、永遠の王〜アーサー・ペンドラゴンとは何者だったのか』(2023年1月)に寄稿した「ジャンヌ・ダルクとアーサー王伝説」の加筆修正版である。

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