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千秋楽の観劇を前に。--- 私の恋人 上田岳弘

文学が苦手な私がようやく #私の恋人 を自分なりに消化できてきたと思えるようになりました。物事を単純化したり何でも解き明かそうとすることは世の中をつまらなくするかもしれないけど、2回目を見る前におそらく的外れな僕の原作への思いを書いてみます。あらすじじゃないです。そしてきっと嘘多数です。最初に謝っておきます、ゴメンナサイ。

ははは。

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人は三度人生を送れば、少しはマシな生き物になるのだろうか。この物語の主人公、「私」こと井上由祐は三度目の人生を生きている。

原始人だった一度目の人生では、明晰な頭脳で人類の未来を予見しながらも、その先に待ち受ける悲劇を傍観者として哀れむことしかできなかった。

二度目の人生は大戦中、ナチスにによる迫害を受けるユダヤ人。前世よりもっと直接的なカタストロフの中にありながらも予見された運命に抗おうとすることなく、結局は餓死する道を選ぶ。

そんな彼らが思い描く「私の恋人」は彼らとは真反対の人物。美しく利発で「そうかしら」の一言で鮮やかに人生をまた別の人生に切替えてしまう、生きることを傍観もせず他人に任せにもしない強い女性。

今、「私」は二度の人生を終えて井上由祐として三度目の人生を生きている。そしてついに目の前に現れた「私の恋人」を前にして一歩踏み出すべきかどうか迷っている。前世の二人から比べればあまりに小さな葛藤だ。

でも高橋陽平によればいま人類も「三度目の行き止まりの旅」の最中だという。

「人類はその進化の過程において旅を重ねている」というのが物語のもう一人の重要人物、高橋陽平の説だ。その旅は結局どこかで行き止まりに当たって終わる。過去二度に渡る人類の旅はいずれも悲劇的な結末をもって行き止まりとなった。

そして現在、人類の三度目の旅が始まっている。

人類の三度目の旅の行き止まりは私たち人類を超えた何かの登場ではないかと高橋陽平は考える。そしてやはりたどり着く先は人類にとって暗澹たる未来…。だが陽平は人類の二回目の旅を辿る途中でその先を見ることなく絶命する。そして陽平の旅の続きを託されたのがキャロライン≒由祐にとっての「私の恋人」。

ただ嘆くことしか出来なかった二度の人生とは異なり、由祐は三世代に渡って夢見てきた「私の恋人」を現実の恋人とするために、小さな一歩を前に進めようとしている。
他者を「あなた方人類」と呼んで人類の物語を傍観しかしてこなかった二度の人生とは違う人生を歩むべく。

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しかし小説では由祐の物語の結末は語られない。開いたドアの向こうに誰がいるのかわからない。結末は読者に委ねられている。

僕は思う。もしも由祐の変化が同じく三度目の旅をする人類の総体としてのほんの小さな変化だとするなら…

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僕は「私の恋人」をこんな風に読みました。そしてプレビュー公演を観ました。渡辺えりさんの脚本は確かに原作から大きく変わっていて、原作の整理すらもできていない自分は今でも混乱しています。なので出版される脚本を読んで改めて比較して感想をまとめたいと思います。

ですが、物語のラストはとても感動しました。あのイメージはマグリットの有名な絵画「ゴルコンダ」にあるのは間違いないと思います。

一人ひとりの異なる人物が均等な感覚で浮遊することで均質化された総体としての「人」を描くイメージは、僕にとっての原作小説のイメージに完全に合致します。

何よりも感動的なのはラストの山高帽の男(たち)に傘を持たせたことです。ゴルコンダに描かれる山高帽の男たちは何も持たずに、まるで中に固定されたように浮いています。

でも傘があれば、風を捉えて飛んで行ける。そして三度目の旅を続ける「私たち人類」の一人ひとりが少しずつ傘を広げ始めたなら、少しはマシな世界が僕たちを待っているのかもしれません。

舞台の書き割りの穴の向こうには確かに無限の空の広がりを感じました。僕はこのシーンこそ渡辺えりさんにとってのこの物語の答えなのではないかと思いました。

そしてここからは #のん さんのファン目線になってしまいますが、彼女がえりさん、小日向さんと笑顔で宙を舞う姿が、まさに彼女が得た自由そのものに見えた気がして、僕は泣きました。物語もよく理解できていないのに。

そして今日、僕は原作を読んで感じたことと、プレビュー公演で感じたこと、そしてあの日からずっと考え続けていることを色々確かめるために、本多劇場に足を運びます。本当に楽しみです。

おまけ

「ああ、今の私は洞穴の中で宇宙を語るクロマニョン人のように孤独だわ!」と嘆く赤毛のアンみたいな思考の持ち主には意外とわかりやすい話なのかもしれないと思ってみたり…。

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