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マンガの中の少女マンガ/家(15):大島弓子「その日まで生きたい!」(1969-70)

 今回取り上げるのは『週刊マーガレット』の1969年50号から1970年2・3合併号に連載された大島弓子「その日まで生きたい!」だ。
 49号に掲載された予告には次のように描かれている。(図1)

♡少女みのるは、まんが家をめざして、夜もねずにペンをにぎっていました
♡しかし、そんなみのるのからだを、ママはとても心配していました。なぜなら、みのるはおそろしい白血病だったからです。
♡そして、いよいよ新人まんが賞の発表の日、みのるは・・・・!?
♡大島弓子先生が、ひたむきな情熱でまんがをかきつつづける少女をえがいたけっ作です。

『週刊マーガレット』1969年49号、集英社、p.124。


『週刊マーガレット』1969年49号の次号予告。連載陣が強すぎる。

 実際、そのような話である。そして、結末を明かしてしまうと、みのるは新人まんが賞に1位で入賞するのですが、すでにその身体は病魔に深く冒されており、知らせを受けたその夜の眠りにつくとそのまま帰らぬ人となってしまうのでした。
 なんとかなしいことでしょう……。

 と、かつての少女雑誌、少女マンガ雑誌にはフィクション、ノンフィクション問わず「かわいそうなおはなし」がおなじみの人気コンテンツとしてしばしば掲載されていたのである。なかでも白血病はそうした読み物においておなじみのモチーフで、この連載が終わってほどない1970年5号の『週刊マーガレット』には、「ある白血病の少女の生と死 良子、おかあちゃんの胸でねむるのよ」という記事が掲載されている。(図2)この記事も実録もので幼くして病で亡くなってしまった良子と、その母との「悲しみの記録」と銘打たれている。

『週刊マーガレット』1970年5号目次。当該記事は「たのしいよみもの」カテゴリに入ってるけど、そんなわけないだろと言いたい。

 1970年代の少女マンガにおける革新を担った作家のひとりとして評価されることも多い大島弓子は(”1970年代における少女マンガの革新”については慎重にあつかう必要があるのでついついもってまわった言い回しをしてしまうのを許してほしい)1968年に「ポーラの涙」が「マーガレット」の増刊に掲載されてデビューしたばかりのこの時期「美花よなぜ死んだ」など、「かわいそうなおはなし」に相当するような作品をいくつか描いており、単行本未収録となっている本作もそうしたなかで発表されたもののひとつと言える。

 連載第一回の煽り文句によれば実録ものである本作の筋立ては、先に述べたようなシンプルなもので、病気ではかなくも亡くなってしまう少女という「かわいそうなおはなし」の定型をなぞっていく。とはいえ、いくつかの気になる描写があるのだが、それは後述するとして、まずここで注目しておきたいのは、その少女がマンガ家志望という点である。彼女は果たして「少女マンガ家」志望なのかどうか。その答えは、「はい」でもあり「いいえ」でもある。
 主人公みのるが体の不調をおして徹夜で描いた原稿の投稿先は『週刊マーガレット』であり、その点では彼女は「少女マンガ家」を目指しているとも言えるが、作中では「少女マンガ」「少女マンガ家」ということばはでてこず、あくまでも描いているのはマンガなのだ。これはこの時期の他の作品と同様である。

 ちなみに、まんが家志望という設定からもたらされる物語上のひとひねりとして、みのるが家にかかってきた電話をとると「結果がわかりました」と言われ、投稿したマンガについての話だと勘違いするが実は病院からの電話で、そこで彼女は自身の病気について知ってしまうというくだりがある。このことで母親は娘が白血病だと知るのが遅れてしまうのだが、こうした勘違いとすれ違いをうまく配置して話を転がしていく手つきは巧みである。また、白血病が発覚する前、夜なかに咳き込みながら原稿を描き進めていたみのるが朝起きてみると絨毯に血が滲んでいることに驚くのだが、そのことを伝えられた母親はなんと初潮だと早合点してしまうというくだりもある。ここでも誤解にもとづく引き伸ばしが行われているのだが、少女読者に身体感覚を生々しく想起させるくだりをさしこんでくるあたりも流石で、こうした細部が定型をなぞりつつも本作を印象深いものにしていると言えるだろう。

 大島の少女/マンガ家ものとしては「さようなら女たち」という素晴らしい作品もあるのだが、これについてもそのうち。

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