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いぶし銀と呼ばれた やさしいパパ

木戸修

武士のように寡黙なレスラーの素顔

米国で「プロレスの神様」カール・ゴッチからレスリング技術を学び、神から「マイサン(私の息子)と呼ばれ、帰国後はグラウンドテクニック、関節技を中心とした、技巧派ファイトを展開した元プロレスラーの木戸修さん。

お世辞にも派手で華がある同時代のスター選手に比べるとパフォーマンスも試合展開も、子供の頃にTVでプロレス中継を見ていた自分には、その良さが全くわかっていませんでした。

数少ない新日本の旗揚げメンバーで、口数も少なく、寡黙で気まじめな性格とも言われています。数々の選手の証言からもその性格は、プロレスのスタイルにも現れていたと言われています。

一方では、現役引退後、若手選手のコーチや、ゴルファーを目指した娘の育成にも力を注いだ指導者としての一面もあり、父親としては、娘のジュニア時代は車の送迎役も買って出ていたという家族思いのエピソードも残されています。

プロとなった娘のツアーに帯同し、18ホールを歩いて応援した話しからも、とても真っすぐな姿勢が透けて見えます。

言葉を選ばずに書くと、プロレスの世界では名脇役という印象が強く、プロレス好きではない方にはあまり知られていない存在の木戸修さんですが、どのような人物だったのか、周りの人達の証言からですが少し調べてみたいと思います。


出典:日刊スポーツ
木戸修さん(2001年9月撮影)


後輩レスラーが語るプライベートの一面


後輩レスラーの新倉史祐さんが語るには、木戸さんは80年代初頭の当時、地方のスポンサー筋に呼ばれる食事会にはいつも連れて行ってくれていたそうです。

木戸さんは直接の縁はなかったが、札幌での人気がなぜか高く「札幌男」との異名を持っていて、その実直なファイトスタイルからか札幌にもスポンサーやファンが多くいたと言われています。

新日本プロレスの札幌ドームのこけら落とし大会では全選手代表としてオープニングの挨拶を行ったこともあります。

また、新倉さんによると木戸さんはすごくおしゃれだったそうで、「洋服は新宿、ブーツは青山。全部、作るところが決まっていた」「3、40年前からルイ・ヴィトンのコレクションを持っていて、ホテル・ニューオータニのヴィトンにもよく行ってましたね。私はよく付き合わされました」と語っています。


出典:日刊スポーツ
新日本の後藤達俊(左から3人目)と手を合わせて写真に納まるUWFのメンバー。左からマッハ隼人、藤原喜明、1人おいて高田延彦、木戸修さん、山崎一夫(1984年撮影)

対戦した武藤敬司の証言


一部のファンの間では、木戸さんがセメント(プロレスの隠語で真剣勝負やガチの意味)が強いという話は有名な話しですが、木戸さんが激怒した試合がかつてありました。

木戸さんの訃報に取材に答えたプロレスリングマスターこと武藤敬司さんは、「まさに『いぶし銀』だったよな。木戸さんとシングルで対戦した時、最終局面でムーンサルトプレスにいく前のバックブリーカーをワキ固めで切り返されて負けちまったのをよく覚えているよ…」と語っており、その人となりを「知っての通りきれい好きでね。試合をしても髪の毛が一切乱れなかった」とも証言しています。


出典:Doors , In & Out !

1994年 グレート・ムタ戦


武藤敬司さんは、1994年に札幌で行われた木戸修対グレートムタ戦についての貴重な証言も残しています。

武藤さん曰く「その試合でムタが木戸さんに毒霧をかけたんだよ。そしたら木戸さん、怒っちまってさあ。それから3日間口きいてくれなかった。ムタが勝手にやったことで、俺は関係ねえのに…」とのことでした。

プロレスに詳しくない方のために説明をすると、武藤さんとグレート・ムタは別人であり、ムタは、正式なプロフィールによると、1989年4月2日アメリカ合衆国ルイジアナ州ニューオーリンズ出身。

武藤さんが、代理人として記者会見などでムタの代わりにコメントをすることはあるものの、あくまで別人格だと言われています。

ただし、本来は英語しか喋れないという設定だったが、試合に負けるなどして武藤さん自身がが激高や疲労し、設定を忘れて日本語を喋ってしまうことがあったり、TV中継時に、実況アナウンサーの辻よしなりアナや解説のマサ斎藤さんがムタのことを「武藤」と呼んでしまうことが度々あったと言われています。

特にマサ斎藤さんにおいては「この武藤、いま戦っているのはムタなんですがね」等の発言があるため、ファンの間では語り草になっています。

説明が長くなってしまいましたが、プロレス的なアングルを無視すれば、武藤敬司=グレート・ムタということは周知の事実なんですが、潔癖症らしい木戸選手が、武藤さんの化身であるグレート・ムタに毒霧をかけられたのを根に持って 素顔の本人に数日も口を利かなかったという逸話を武藤さん本人が語っています。

この一戦は、プロレス界の名脇役であり、職人派の名レスラーの木戸選手が取り乱したエピソードとして、後に語り継がれるようになりました。

とはいえ、グレート・ムタ戦でも木戸選手はきっちりと自分の仕事をこなし、プロレスを成立させ、ファンを盛り上げる試合展開を見せています。

ムタ戦に限らず、確かな技術と実力から繰り出されるオリジナル技のキドクラッチや、得意の脇固めが飛び出すと、会場が沸き、大いに盛り上がる見せ場をプロとして量産した選手だとも言えます。

一部のファンの間では「平成の新日本マットにおける裏名勝負製造機は木戸修」という声もあり、対抗戦でも活躍し、相手が若手でもベテランでも、外国人レスラーでも関係なく面白い試合にしてしまう実力を兼ね揃えていた選手でした。

前述のムタ戦でもキドワールドをしっかり作れる、今では少ないオールラウンダーかつ、明確な自身のスタイルを貫いたまさに「いぶし銀」の異名をとる職人レスラーとしての存在と立ち位置を、年齢を重ねた今だからこそ自分にも少しはわかるようになったのかもしれません。

そして、師と仰ぐプロレスの神様カール・ゴッチからは「私の息子」と言われるほど溺愛され、木戸選手もゴッチを慕い、生涯そのストロングスタイルとプロレスへの姿勢を崩すことはありませんでした。

どんなに激しい戦いでも、ピシッと決まったその髪型が崩れないと言われたその実力はかなりのものだったのではないかとも想像が出来ます。

そのため、ムタにやられた後に、別人格の武藤さんを捕まえて説教をし、その後3日間も口を聞かなかったというエピソードにも非常に人間味を感じてしまいます。

「いぶし銀」のニックネームがそのままリングに現れたようなストロングスタイルの黒いショートパンツに銀色のリングシューズを履き続けた木戸選手がプロレス界に残した功績は大きいと言っても過言ではありません。

もし、自分が木戸選手の最盛期の頃に、今の年齢だったら必ず応援していたと思います。


出典:日刊スポーツ
引退記念興行で木戸修さんは中西学に肩ぐるまされファンにお別れをする(2001年11月撮影)

娘からみた父親像


現役時代は、いぶし銀の技巧派レスラーとして名を馳せた木戸さんですが、娘を愛する父親という一面も時おり語られています。

木戸さんはたびたび会場を訪れ、プロゴルファーとして活躍する長女の愛(めぐみ)さんをサポートしていたことでも知られていました。

娘の愛さんは父親について次のように語っています。

「私にとっての木戸修は、優しい父親でもあり、偉大な先輩アスリートでもあり、尊敬し、父の娘であることを誇りに思っております」


出典:encount
木戸修氏のサイン色紙と引退試合のチケット【写真:柴田惣一】

引退セレモニー


2001年11月2日、横浜文化体育館で「木戸修引退記念興行」が行われ、長州力とタッグを組み、藤波辰爾・木村健悟組と対戦。後にピンポイントで現役復帰をするものの引退セレモニーが行われました。

師匠であるカール・ゴッチによるメッセージに続いて、愛娘2人がリングで花束を渡すセレモニーも行われました。

控室での本人のインタビューでは盛んに「家族」という言葉が発せられていたと記録されています。


出典:日刊スポーツ
愛娘の運転手役を務める木戸修さん(2012年6月撮影)

人柄について


後年は新日本道場で若手のコーチを務めた木戸さんですが、その当時の教え子には、現WWEの中邑真輔選手がおり、木戸さんの訃報時には「プロレスで最初の先生でした」とコメントを寄せ、悼しみました。

小島聡選手は「人間離れした感じはなくて、とにかく真面目で冷静で優しい印象が強かった」と語っています。

そして、もう一つ興味深い証言としては、本人自身の発言があります。

引退セレモニーの席まで木戸さん本人の口から明かされることはなかったエピソードとして、実の兄との関係性が語られました。

兄の木戸時夫さーも1963年に日本プロレスに入門したプロレスラーでした。練習中の事故で脊椎を損傷してしまい、志し半ばでリングを去った後に闘病生活を送っていました。闘病生活を送る兄を見守るうち、「兄の叶えられなかった夢を自分が叶える」と志すようになったと言われています。

1982年のプロレス月刊誌で、ベストバウトを語るコーナーでは、「藤原選手との試合は、タッグでもシングルでも兄が見て誉めてくれていた」と語っています。

意外な一面


ここまで、木戸さんについて、調べていくうちに、「レジェンド直撃」シリーズというENCOUNTの2022年4月のネット記事に行き着きました。

記事は、若いころから堅実な人生プランを描くようになった理由や、一部では知られていたカーマニアぶりを披露してもらうというインタビューになっており、引退後のセカンドライフについても語られていました。

以下、その一部を引用します。

(取材・構成=柴田惣一)

――木戸さんと言えば車。カーマニアなんですよね。

「マニアではないな。エンジンをいじったりはしないし。ただ、家族を乗せていくのも楽しいし、1人でする移動もいいもんだ」

――木戸さんの愛車遍歴を教えてください。

「シーマ、ソアラ、フェアレディZ、レクサスなど国産車にベンツ、ポルシェ、ボルボ、ジャガーなど外国車。各車、一番上のモデルにこだわったかな。女房と俺、常に2台あった。女房も仕事で必要だったし」

――皆さんがよだれを垂らすラインアップですね

「カーマニアじゃないけど、いい車に乗りたいじゃん。運転は好きだけど、全部AT・オートマチック車だよ(笑)」

とても、貴重な取材記事が読めて筆者に感謝すると共に、木戸修さんのご冥福を心よりお祈り申し上げます。


出典:日刊スポーツ
サマンサタバサレディースで優勝し、父修さん(左)から祝福され笑顔を見せる木戸愛
(2012年7月撮影)

木戸愛が父のレスラー引退セレモニーに登場した時


33年間の現役にピリオドを打った引退興行の映像がありました。
木戸修さんありがとうございました。

https://youtu.be/S6mjZIZIwdw?si=Gnnzzh9McaL1jsb4


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