アホは死んでも治さない
一人でコメディno1を貫いた芸の人
一般人にも師匠と呼ばれる坂田利夫さんのすごさ
「アホの坂田」の愛称で親しまれたコメディアンの坂田利夫さんが、12月29日に老衰のため大阪市内で亡くなったというニュースが報道されました。年齢は82歳で老衰による最後を迎えました。
坂田利夫さん。本名・地神 利夫(じがみ としお)。通称・アホの坂田。後輩芸人や年下の著名人や一般人からは坂田師匠と呼ばれており、上方を代表するコメディアンの一人でした。その芸風からも多くの人々の記憶に残り、昭和の笑いを作ったレジェンド芸人の一人として今も多くの人の心に残っています。
漫才コンビ時代にリリースした浪速のモーツアルトこと、キダ・タロー氏作曲の「アホの坂田」がイメージソングとして定着し、舞台登壇時などには恒例のお約束として出囃子に使用されていました。
代表的なギャグは、「あ~りが~とさ~ん」や「あんたバカね、オホホ~」などで、子供からお年寄りまで、誰もが笑えるギャグで、一時代をかけぬけました。
坂田さんと間寛平さん
坂田さんは、数年前から高齢者施設に入っていることが報じられており、2023年の9月には、盟友のお笑いタレント間寛平さんが坂田さんの入所する施設を訪ねた際には、ふたりで一緒にタブレットを覗き込む2ショット写真をSNSに公開しました。
SNSには親友の寛平さんによって「今坂田利夫大先生に会いに来ました。先生は上機嫌です、嫁と3人で昔の写真を見て笑ってました、ウヒハ」と、坂田さんが元気であることがつづられていました。
エンタツ・アチャコに認められた若手時代
坂田さんは、1961年に吉本新喜劇の研究生に応募し、現在のしゃべくり漫才の原型を作ったエンタツ・アチャコの花菱アチャコから「あの子はなんか持ってる子」と後押しを受けて吉本入りをしたそうです。
元々、大村崑に憧れたのが芸人を目指すきっかけで、毎日放送のドラマ「番頭はんと丁稚どん」も欠かさず見ていたといわれています。
その後、西川きよしさんに「漫才はもうかるでえ」と勧められて喜劇役者から転向し、67年に新喜劇所属の前田五郎さんと「コメディNo・1」を結成。
70年に第5回上方漫才大賞(ラジオ大阪主催)の新人賞を受賞し、翌71年には第1回NHK上方漫才コンテストで最優秀話術賞、72年にも第1回上方お笑い大賞(読売テレビ)で金賞に輝くなど、文字通りNo・1の勢いを見せました。
アホに徹した芸道
坂田さんの代名詞となった「アホの坂田」はセオリー破りの掛け合いがきっかけで生まれた芸だと言われています。
普通は、「お前、アホか!」とツッコむ相方の前田さんに、坂田さんが「誰がアホやねん!」と返さず「うん、アホや」と素直に答えたところ客席が大ウケになり、生まれました。
アホのキャラクターに徹することで「子供からお年寄りまでかわいがってくれるようになった」と生前語っていたそうです。
「賢く見えてしまうから」と眼鏡もかけないようにしていたという徹底ぶりは、芸道の鑑であり、プロ意識の高さが伺えるエピソードのひとつです。
コンビの解散
2009年7月、相方の前田さんが吉本興業とのトラブルなどを巡って無期限活動休止となりコンビも解散。坂田さんはピン芸人として再始動することになりました。
最近でも良く耳にする芸人コンビの解散や活動休止の話題ですが、コメディno1も例外に漏れることがなかったことを聞くと、昔も今も不祥事やトラブルはコンビ間においても、永遠のテーマのように感じます。解散理由については、後の頁でもう少し詳しく触れたいと思います。
アローン会名誉会長
ちなみに、坂田さんは、吉本興業所属の独身芸人グループ「アローン会」の名誉会長としても後輩から慕われていました。
アローン会は、名誉会長の坂田さんに続く最高顧問は明石家さんまさん、会長は今田耕司さん、2代目部長はチュートリアル・徳井義実さん、会員にはピース・又吉直樹さん。錚々たるメンバーが名を連ねています。
坂田さんは2017年に映画「嘘八百」完成披露試写会の舞台あいさつに登壇し「来年は絶対に結婚しますよ」「ワシはまだ結婚諦めてへんからな!」と、結婚して退会した初代部長のナインティナイン・岡村隆史さんへのメッセージを送りました。
そのコメントには、「岡村、ワシより先に結婚するなんて約束が違うやないか。でも岡村と結婚してくれる嫁はんやから、ええ人やと思うわ。これからも夫婦仲よくしてください」という坂田さんらしいオチがついていました。
坂田さんと西川きよしさん
坂田さんは、若手のころから、西川きよし・ヘレン夫妻と仲が良く、西川家に居候して3人で若い時代を切磋琢磨していたそうです。
坂田さん曰く、当時は、新喜劇の研究生になったはいいものの、与えられた役は通行人ばかり。上手から下手へ静かにはける、というだけだったそうです。
それでも芸能人になったのがうれしくて、電車の中で周りの人に見えるように台本を読み、台詞なんかひとつもないのに、覚えているふりをしていたそうです。
それでも、当時の吉本新喜劇のオーディションは、1500人受けて合格は15人だけ。同期にはレツゴー三匹の逢坂じゅんさんがいたそうです。
研究生の頃は母親に弁当つくってもらっていて、出番が終わって楽屋に戻って弁当を広げたら、半分なくなっているということがあったそうです。
おかずも飯もきっちり半分だけ食べられて、きれいに風呂敷で包み直してある。それが何回か続いたので、誰が食べるのかと楽屋に戻ってみたら、それが、西川きよしさんだったそうです。
二人とも当時は貧乏で、お客さんが置いてった食べ物を「みかんは皮むいて食べるから汚くない」「せんべいも袋に入っているからきれいや」と言い合って、腹を満たしていました。
当時、きよしさんは新喜劇のヒロイン役で人気だった杉本ヘレンさんと付き合っていて、中津の汚いアパートの新婚家庭に坂田さんが転がり込んで、3人で川の字になって寝ていたそうです。
実際、二人ともヘレンさんに食わせてもらっていたそうで、きよしさんが横山やすしさんとコンビを組んで漫才師として人気が出たのは、その後のことでした。
前述したように、きよしさんが坂田さんに、「坂田、おまえも漫才せえ。よう儲かるで」と言ったのはその頃のことだったようです
コメディno1のコメディにならない話
その後、1967年にコメディno1を結成して人気を得る坂田さんでしたが、次第に放送メディアでは坂田さんのピンでの活動が多くなり、コンビとしての活動は、なんばグランド花月などの舞台中心となりました。
また2人はプライベートではほとんど付き合いがなかったと言われ、コンビ仲が悪い漫才コンビの代表的存在とも一部では言われていたようです。
前田さんが2009年に起こした中田カウスさんへの脅迫状送付事件に関与していたと一部で報道されたため、「世間を騒がせた」という理由で同年5月にタレント活動を休養。同年8月31日をもってコメディNo.1の解散が発表されました。その後、前田さんは吉本興業を解雇されることになりました。
くしくも、「やすきよ漫才」として20世紀を代表する天才漫才師と呼ばれた、きよしさんの相方の横山やすしさんが、度重なる不祥事から吉本興業の当時の会長林正之助さんに「もうええ、もうよろし!」と契約解除を通告された1989年と同様に、坂田さんもきよしさんもコンビを解散し、残りの芸人人生をピン芸人として歩んでいくことになりました。
アホは死んでもアホなのか
コンビは解散したものの、文字通りコメディ界のNo1として、亡くなるまでアホに徹して、見知らぬ素人からも師匠と呼ばれる大師匠は、坂田さん以外に見当たらないなではないでしょうか。
今でも、ユーモラスな出囃子と共に登場して、「アッホー」と陽気に挨拶をするあの笑顔が忘れられません。
「あ~りが~とさ~ん」という、ただただ優しい人を傷つけないギャグは、今の時代だからこそ、誰か優秀な後輩が受け継いでくれないかと、一お笑いファンとしては、節に願いたいというのが本音です。
坂田さん、もとい、アホ坂田師匠がこの世を去っても、辛気臭くなりすぎないのは、あの陽気で屈託のない笑顔のせいなのかもしれません坂田師匠「あ〜りが〜とさ〜ん」と声をかければ、いまでも「あっほ〜」と返ってくるようで仕方がありません。
師匠、長い間のアホの生活、本当にお疲れ様でした。
心よりご冥福をお祈りいたします。
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