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困難への覚悟、その先に見える景色。監督・田村雄三その①【Voice特別編】

フリーライターの川端康生さんによる、田村雄三監督の特別インタビューを全2回でお届けします。第1回は、昨シーズンの監督再就任時の思い、そしてプロサッカー選手という夢に辿り着くまでの道のりについて語ります。


▼プロフィール
たむら・ゆうぞう
1982年生まれ。帝京高→中央大→湘南ベルマーレ
2010年に引退。湘南ベルマーレ強化部スタッフを経て2015年、いわきFC強化部へ。2017年から2021年までいわきFC監督を務め、2022年から2022年よりスポーツディレクター。2023年よりゼネラルマネージャー。2023年6月、いわきFC監督に再就任


取材・文/川端康生

■リスクを恐れず、逆境に身を投げ出せるか。

 昨年シーズン半ばに監督を引き受けることになったとき、周囲の声は反対9割だったらしい。

 下位に沈むチームを立て直すのはただでさえ難しい。もちろん時間的猶予もない。ましてS級ライセンスを持っての初仕事だ。万が一、降格なんてことになったら押される烙印は「落とした監督」。将来も潰しかねない。それどころかプロ契約を結べば、生活の保障だって危うい。

  だから「やめておいた方がいい」。
 道理にかなった判断だし、親身なアドバイスだとも思う。

 もちろん「9割」に決断が揺らいだわけではない。大倉智社長から打診を受けた時点で、本人の心はとっくに決まっていた。

 むしろ興味深く聞いたのは「たった2人だけだった」という賛成の方である。
 一人は父親。

「俺はやったほうがいいと思うよ。だって(J3に)落ちても仕方ない状況なんだから、それを残留させることができたら、おまえ、箔がつくじゃないか」

 そんな父の言葉は息子にとっても腑に落ちるものだったという。

「ピンチはチャンスということですよね。僕自身もずっとそう思ってきたので。
 あのときもこれは一皮むけるために与えられたチャンスだと感じました。ダメならクビになる覚悟もできてましたし」

 そして、もう一人は湘南ベルマーレでともに歩んだ曺貴裁(現・京都サンガF.C.監督)。

「いいか雄三、みんなが嫌がる仕事をやるのがプロだから。みんながやろうと思う仕事をやるのは普通だから。だから、やった方がいいよ」

 実はこのときのやりとりには「さすが曺さん、いいこと言うな、その通りだなぁと思いながら聞いていたら、最後に『俺だったらやらないけどね』って(笑)。僕も『どっちやねん』って返しましたけど」というオチもついているのだが、それはともかく、曺と田村が抱いている職業観のようなものが垣間見えて、やっぱり興味深かった。

 感じ取れたのは父親と曺、それに田村が共有している人生観だ。
 いつも順風なときばかりではないという前提。
 それでも、いやだからこそ、リスクを恐れず、逆境に身を投げ出せるか。誰もやらない仕事を引き受け、それを全うできるか。
 己の真価はそこで決する、という覚悟である。

 それは挑戦のメンタリティと言い換えてもいいかもしれない。
 だとすれば、そんな人生観も性分も、重ねてきた挑戦の経験によって培われてきたのだろう。逆風を避け、困難を遠巻きに眺めていて、芽生えるはずはないのだから。

 1982年生まれ。小学生の頃、Jリーグができた。「プロサッカー選手」が将来の夢になった。
 だが…。

「僕はエリートではないですから」と言う。
「子供の頃から特別な選手ではなかった」とも。

 それでも夢まで辿り着けたのは――。

■全てにおいてうちのめされた学生時代。

「全然うまい選手ではなかったですね。プロになってからもそうだし、子供の頃も特別な選手ではなかった。
 自分の学校ではうまい方だったかもしれないけど、6年生のときに県のトレセンに行ったらみんな上手でびっくりした。中学になって前橋ジュニアに入ったんですけど、周り全員が僕よりうまかったんじゃないですかね」

 少年時代の自分をそんなふうに振り返る。

 田村には2人の兄がいるが「1番上は前橋商業で、2番目は群馬、いや関東でもトップクラスの選手で。でも僕は関東選抜にも入ったことがない程度の…」と、兄弟の中でもやっぱり「特別な選手」ではなかったと言う。
 それは高校へ進んでも変わらなかった。

 前橋ジュニアの縁で名門・帝京高校サッカー部に入部することができたのだが…。

「うちのめされましたね。特に入学した年の先輩たちはすごかった」

 田村が1年次の年の帝京は選手権で準優勝するチームである。超高校級だったから、うちのめされるのも仕方ない。
 だが、上級生ならまだしも、同級生にもスーパーな選手がいたのだ。高卒で浦和レッズに入団する田中達也である。

「同期の達也を見て、『ああ、こういう奴がプロに行くんだな』と思いましたね。僕とは違って特別な選手だった」

 しかも、目の前にある現実はさらに根深かった。うちのめされたのは技術の差だけではなかったのだ。

「達也は努力もすごかったんです。1年の間に筋トレだけで10㎏くらい体重増やしたんじゃないかな。身体大きくして、武器のドリブル磨いて。あいつと比べたら俺は全然努力してないな、叶わないな、と…」

 試練はまだ終わらない。
 プロ入りしていく同級生を横目に進んだ中央大でも「また同じようなことが…」待っていたのである。
 2学年上に中村憲剛がいたのだ。

「めちゃめちゃうまかったですよ。おまけにサッカー小僧で、サッカーに没頭していた。それなのに関東選抜のセレクションとかで落とされるんです。『こんなにうまくて、あんなに努力しているのに落とされるんだ』と…」

■無理だったはずの夢に辿り着く。

 少年時代からのそんな日々を田村は「常に『無理だよ』ということを突き付けられているようだった」と表現する。

 確かに、いつも自分よりうまい選手が必ずいて、「おまえには無理だ、無理だ、無理だ」と宣告され続けているような境遇である。
 おまけに、そんな選手がものすごい努力を重ねている姿まで目の当たりにし続けているのだ。
 プロサッカー選手なんて無理だ。やっぱり俺には無理だ。所詮、子供の夢だった…。
 そう諦めても、まったく不思議ではない。

 だが、彼はそうは思わなかったようだ。
 たとえば、帝京でスーパー同級生を見たときはこう考えたという。

「達也がいたことで、いまの自分にはプロは無理だとわかった。だから大学に行こうと。それも絶対強い大学に行こう。そこで自分の立ち位置をもう一度…」

 突き付けられているのは「いまは無理」という現実であって、それはこの先変えられるかもしれない。
 そう考えたということである。

 その意味では、田村は挫折していない。
「こういう奴がプロに…」「叶わないな」「こんなにうまいのに…」と繰り返しうちのめされてはいたが、一度も失望などしなかったからだ。

 それは大学時代の先輩への視線でもわかる。「うまい人がすごい努力を…」というエピソードの続きだ。

「1年上の植村慶さん(卒業後、湘南ベルマーレに入団)なんて、練習が終わった後にも八王子のジムに通ったりしてましたからね。プロになるにはあそこまでやらないといけないのか。あそこまでやってもなれないのか。『頼むからJリーガーになってくれ』と願いながら見てたくらいです」

 まるで、プロに辿り着くまでの道程を測っているかのようである。
 Jリーガーになるためにはやらなければいけない努力はどれくらいか。あれでは足りないのか、もっとか…。
 それが自らに課す努力の物差しだったことは言うまでもない。

 そして大学の関東選抜に選ばれ、湘南から声がかかり、「無理」だったはずの夢に辿り着くのである。

■居心地いい場所に安住して強くなれるほど、人生は都合よくない。

「僕は巡り合わせがよかったんですよ」と言う。
少年時代の夢を叶えるまでの道程を振り返って、だ。

「分岐点、分岐点で巡り合わせがよくて、高い環境でやれたことで、いつもすごい選手が周りにいて、それで『無理だ』と思い知らされながらやって……それで、たまたまうまくいったというか」

 高くて厳しい環境で、「無理だ」と突き付けられる境遇を、「巡り合わせがよかった」と感じてしまえるのが、本人は気づいていない田村の凄さだろう。

 それでもそんな環境が彼を高めたことは疑いようもない。逆境こそ成長の絶好機なのだ。まさにピンチはチャンスである。
 逆風に身を晒さず、居心地のいい場所に安住していて、強くなれるほど人生は都合よくない。
 付け加えるなら、挑戦を重ねれば重ねるほど、ピンチに尻込みすることもなくなる。その先に飛躍が訪れることを経験的に知っているからだ。

 努力している人がそれを「努力」だと感じなくなるのと似ているかもしれない。だから田村は自らの努力を語らない。
 それどころか「たまたまうまくいった」なんて、あっけらかんと言ってしまうのだ。

 だとしても「僕はチャレンジするところまでいってなかったかも」と言い出したときには少し驚いた。

 湘南に入団し、プロサッカー選手となってからの話だ。

(その②に続く)


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