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原体験のその先へ。ー第2回 INA VALLEY FOREST COLLEGE(オブザーバー)

友達がインターンをしている関係で知った「INA VALLEY FOREST COLLEGE」業界を超えて森の価値を再発見、再編集して、豊かな森林をつくることを目指す学び舎をコンセプトに、これからの暮らしのあり方と森の関係性を森と〇〇という形でゲストを呼んで掘り下げるオンラインワークショップです。

実は、僕がうっかりしていて参加申し込みに間に合わず、参加を諦めていたのですが、ウェブアーカイブを事後に見ることができる「オブザーバー」として今回参加することができました。グループディスカッションや、後半セッションには参加できませんでしたが、自分の興味関心に近い分野だからこそ、大きな学びを知ることができました。

森を使って「食っていく力」を身につける

今回登壇されたのはネイチャーガイドで南信州キャンプセッションの久保田雄大さん、日本で唯一の私立の農業高校で有機農業を教えている愛農高校の近藤百先生。地域プレイヤーは、上伊那でキャリアコンサルタントとして活動している富岡順子さんの三名でした。

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南信州のキャンプ場を運営する久保田さんは、都心からキャンプ場に来る人たちが自然に囲まれた環境で「生きていく」ことを実感している姿を目の当たりにしている。自然にほとんど触れたことがない両親が、子供に自然を触れさせるために来るパターンが非常に多い。自然に触れることがレジャーになっている人たちが、火をつけることから始まり、キャンプ場での滞在を通してどんどんできることを拡大しながら深みへと誘うのが久保田さんの仕事だ。

山に生えているキノコが食べれるのか、食べれないのかを考えることも「森で生きていくため」の生の体験だ。こうした生の体験の根底にあるのは、今いる場所で生きていく(サバイブする)ためのものを生産する営みだ。自然との接点がない暮らしの中では食べ物は足りているから消費物になっているが、いくらお金を払っても飯が食えない可能性があることを忘れさせてしまっている。食っていけるものに限りがあるときにどうやって食っていく力が自然と向き合う暮らしには求められている。

余談だが、僕が住んでいた和歌山県美浜町三尾にあった昔の商店では、料理中の鍋を持ってきて醤油を買って調理しながら家に帰るなんてこともあったそうだ。近くに商店があった昔の村落では調理中に買い物をすることがあったが、今の都市部で隣にイオンモールがあったとしても調理中にイオンモールやイトーヨーカドーまで買い物するおじちゃんはいなかっただろう。

自分がした体験から生まれる教育

昨今の教育も「主体性」にシフトしている。確かに僕が高校生(2017年卒業)の頃から、学生が壇上に立って発表をする、グループディスカッションする形式が意識の高い先生たちが使われていたように思う。しかし、実際に学校教育にも関わっている富岡さんは、これらの「主体性」がどうしても受験勉強が前提になっていることでプロジェクト型の学習を本質的な意味で採用することができていない。特に主体性をいかに評価するかという問題が受験勉強に即した現在の指導要領内では困難である。

近藤先生の愛農高校では子供達に「あるものを使って生きていく力」を農業教育を通じて教えている。いろんな学生が学びにやって来る中でも、農的なものは素晴らしいものだと親に言われたり活字越しに読んで理解しているが、自分で納得できない子供がいた。納得できてない状態で彼がとった行動は実際に農場で耕してみることだった。農場で取れた野菜を料理好きな学生と鍋にして、余った野菜を別の学生とたくあんにするという行動をとる中で農業をすることが「自分にとってどう大切なのか」を実感した。

知識・直感が体験そして実感に降りるのには時間がかかる。直感と実感をバイパスで繋げるようにすることが求められている。

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地方=原体験とは限らないのが問題では?

僕はこの話を聞いていて、難しいなと感じました。この難しいというのはどういうことなのか。

僕が大学を休学してGuest house & bar ダイヤモンドヘッドに居候していた和歌山県美浜町三尾も三方を山に囲まれた海辺の村だ。ゲストハウスの裏庭がイノシシで荒らされてたりとまさに自然と隣り合わせだった。

近所のおばちゃんに昔の三尾について話を聞いていたときに印象的だった話がある。「お風呂のお湯を貰うために近所の人が井戸のある家に集まっていた」という話だ。

かつては水は海辺の小さな村にとっては貴重な資源だ。特にお湯を沸かすという行為を一軒一軒でするのはもったいないことだ。そこで、井戸がある家のもとでお風呂を分けてもらうことでみんなで仲良くお風呂を分け合っていたというのだ。お風呂を共有するという考え方は完全に眼中から外れていた。
ドラえもんでのび太くんがしずかちゃんのお風呂に入り込んで怒られているが、そんだけお風呂を沸かすならのび家一家ぐらいはお風呂を分けてあげてもいいのではないだろうか。

同様に洗濯機も水がもったいないので村の人たちで裏山の池まで手洗いにいったりと、当時はまさに「あるものの範囲でどうするか」を考え地域のつながりを生かしてサバイブしていたように思われる。

かといって、今わざわざ山奥の池まで水を組みにいったり、近所同士でお湯を分け合ったりするだろうか?ほとんどの人がめんどくさがってしないだろう。それこそキャンプ場に来るような「レジャー目的」の人は滞在中はするかもしれないが。

地域には「サバイブ」する力をえるための道具、きっかけがゴロゴロと眠っている。しかし、皮肉なことに文明、科学技術の進歩で地域の人にとって「原体験」は「古臭いし、もうわざわざやらない」ことになってしまった。
一方では「原体験」を求め、他方では「原体験」なんてと投げ捨てる。そのギャップはどうにかならないのだろうか。

新しい原体験も必要

原体験を自分の手ですること、現代社会だと省略されがちなプロセスを見直すことは非常に大切なことです。それが大前提としてある中で、人々の生活様式に抗うには、「原体験」そのものを見直す努力も必要だと考える。

例えば、今まではただただ生えっぱなしで、迷惑がかかるからたまには間引かないといけないからとやっていた雑草むしり。それをむしりとった雑草を一箇所でメタン発酵させることで燃焼剤として使えないか。木工をやったときの屑を集めて、木質バイオマスとして再活用できないか?

原体験=昔ながらの自給自足の生活という構造を取っ払っていかに「目の前にあるものでなんとか生きていくすべ」を現在の科学的知見を活かすことで変えていけないのか。という考え方も絶対必要だと思います。


その考え方は教育という観点からも、「なぜ、山で自給自足のすべを学ぶのではなく、学校で勉強しているのか」ということへの一つの答えになるのではないでしょうか。


僕は今、経済学部に所属していますが、農学と科学社会論(科学がどうやったら社会と円滑に繋がるか)の勉強ばかりしています。それは、和歌山県美浜町三尾で暮らすという原体験のなかで「目の前にあるもので生きるすべ」をもっと知りたいと思ったからです。バイオロジーの世界に半分身をおきながら、社会のあり方を見ることで目の前にある自然、バイオマスを使って生きるすべを増やすことができるのではないか。そんな思いで全くの門外漢が理系の門を潜ろうとしています。


なぜ、なくても生きていけそうな勉強をする必要があるのか。それは「原体験」から始まり、「原体験のその先」を見据えることで理由がわかる。それが今の段階での僕が考える一論です。

もし琴線に触れることがあれば。最低金額以上は入れないでください。多くの人に読んでもらえれば嬉しいです