ワルツを踊る


「すこしだけ、動かないでよ、綾瀬」
「わかってる」
「ああ、いや、動いてくれてもいい。訂正する」
「なにかポーズをとってやろうか」
「いいや、結構」

イーゼルに立て掛けられた大きなキャンバスに向かう……ではなく、分厚いフランス文学の教科書を下敷きに、授業で書き損じたしゃくしゃのルーズリーフに向かう足立は楽しそうな表情をしている。ペンをさかさかと動かし、机に座っている俺を描いているらしい。

「タバコを吸っても?」
「OK、でも、灰は落とさないでよ。ここは教室なんだから」
「はいはい」

俺はポケットからタバコの箱を取りだし、コンビニで買った100円ライターでタバコに火をつけた。すう、と吸い込み、ぷはあ、とやると、足立は「いいね」なんて言ってる。

「ハンサムに描いてくれよ」
「勿論、モデルがハンサムだと描き甲斐があるよ」
「ははあ。画家がいいと、モデルの気分もよくなるってもんさ」
「ふふ」

足立は眼鏡を外してそこらに放り、しゃかしゃかと音をたてて俺の絵を描く。らくがきしているだけなんだが、とにかく楽しそうだ。だけどまあ、どこか作られた機嫌の良さにも思える。なにかをひたかくしにしているような、そんな。俺はかなり勘がいい方だ。とりわけ、この幼馴染のことにおいては。

「……足立、何かあったか?」
「何かって」
「最近、心にひっかかるような、なにかさ」
「昨日、犬が交尾してるのを見たね」
「素晴らしい。愛だね。じゃあ、それ以外に」
「何も。ああ、失敗した」
「そうだね、たとえば、君のイイ人と」
「………」
「お前はわかりやすいね昔から」
「何もない。僕と彼の間には、なにもね」
「そう。何もか」
「そう、何もさ」

なにもなかった、いや、なにかあったとしても俺にはきっと関係がないのだ。俺はこいつに男の恋人がいることを知っている。それが、随分と年の離れた中年だということも、その中年が妻子持ちだということも、全部。
しかしこいつが口を開かない限り、俺は踏み込んではいけない。幼馴染の暗黙のルール。
土足で彼の庭を踏み荒らし、足立に逃げられたくない。俺がまたぷはあ、とやると、絵を描く手が止まった。

「こうやって描きたくなるのは」
「?」
「必ず、"彼"じゃない」
「へえ」
「どうしてだろうね」
「そういう対象じゃないからだよ」
「でも、いとしいものを描きたくなるものだろ」
「じゃあお前は俺が死ぬほどいとしいのか?」
「ああ、死ぬほどいとしいね、綾瀬」

あはは、と俺は声を上げて笑った。
ばかな。

「嬉しいな。今夜は乾杯だ」
「知らなかったのかい、僕らとうの昔から両思い」
「知らなかったね。最高の気分さ。踊ってもいい?丁度、上の教室でオケ部が何か弾いてる」
「踊ったら描けない」
「描けるよ、とびきりハンサムな俺が」
「描けないって、動くなよ」

空き教室で練習をしているのだろう、バイオリンの音色が聞こえる。クラシックだ。俺は音楽に明るくないから曲のタイトルなんかはわからない。
机から飛び降り、くわえタバコのまま教台の前で奇怪なダンスを踊ると、足立は腹を抱えて笑いだした。

「やめろよ、笑って、描けない」
「笑うかよ。音楽が最高で、お前の絵がとびきりだから、体が勝手に動いてるんだ。さあ、お前も」

座っている足立の手を取り、引っ張りあげる。持っていた教科書と紙とペンが机を滑り落ちた。

「僕はダンスは下手さ」
「ワルツなら踊れる?」
「ステップを知らない」
「どうでもいいんだよ、ほら、右足をひいて」
「あははは、綾瀬、君、酒くさい。昨日、しこたま飲んだろ?」
「お前もだろ」
「あたり前さ。画家なんだから。画家なんて、酔ってないとやってられない」
「名言だ。ほら、次は右足を前に出す」
「絵を、描きたいんだけど」
「俺があとで代わりにWinnie the Poohを描いてやる」
「君の18番だな。小学生の頃から描いてる」

俺たちは踊る。
へんてこなワルツを。
いとおしそうに腰を抱くが、身体を抱きしめはしない。キスもしない。俺には彼女がいて、足立はただの幼馴染。これは当たり前のことだ。
なのにどうして、目の前の男が笑うと、たまらないくらいに泣きだしたい気分になるんだ。
床に落ちている足立の描きかけの俺の顔は、どうやっても悲しみにくれているようにしか見えなかった。
ばかみたいだ。



end.

#小説 #BL小説

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