演説と自由:話す自由、聴く自由、ヤジる自由

 以下は2017年の都議選の際に、秋葉原駅前での自民党の選挙演説会の際に起こった演説妨害騒動(7月1日)について、私自身の現場での体験を記録したものです。文章は同年7月6日に脱稿しました。もともと朝日新聞のWEBRONZAに安倍政権のコミュニケーションについての寄稿を求められ書いたのですが、長くなったためにこの部分は掲載できず自分のホームページ(HP)に載せていました。そのHPはプロバイダー都合により閉鎖されてしまったのですが、今回2024年衆院補選での選挙演説妨害騒動を機に、みなさんの議論に供すべく再公開させていただきます(タイトルと小見出しのみ今回付け加え、リンクを貼り直しました)。 
どうぞよろしくお願いします。
2024年4月24日 
逢坂巌


 

演説と自由:話す自由、聴く自由、ヤジる自由

<秋葉原の演説会場で「彼ら」に圧迫される筆者>

 編集部からは、今回の都議選に関連し「官邸のメディアコントロールはなぜ崩壊したのか?」について書けとのお題をいただいたのだが、今回の都議選の政治コミュニケーションに関して、大変に気になることを体験したので、まずはそのことを述べ、その上でいただいたお題に入っていきたく思う。

  気になったこととは、演説会のことである。

  小生は、政治コミュニケーションを研究テーマにしている。1999年に大学院に「入院」して、「テレビ政治」研究をはじめて以来のテーマなので、かれこれ20年近くたつ。はじめた当初は、まだVTRの時代で国政選挙になると毎回数百巻のビデオテープを使ってテレビ各局の選挙報道を録画したものだ。爾来、政治家や政党の有権者とのコミュニケーションやテレビ・新聞の政治報道などを、見つめ続けてきた。(研究の成果は小生のサイトで確認いただきたい。)

  ところで、この間、研究と実益を兼ねて出来るだけ足を運んできたのが、選挙時の街頭演説会だ。「テレビ政治」からスタートした研究ではあるが、やはりテレビ(そして新聞)が視聴者・読者に提供する現実は、どうしてもその状況を切り取った一部になってしまう。そもそも、新聞では映像や音声を伝えることはできないし、テレビ画面は空気や匂いを伝えることはできない。

 しかし、候補者や党首は生ものである。選挙にかける彼・彼女らの気力や人柄、纏う空気や佇まいなどを感じるには、演説会に勝るメディアはない。

演説会からわかるものはそれだけではない。党首や候補者が演説をする前に、支持団体や応援している党・地方議員などが紹介されたりもするが、誰がきているのか、そしてどういう順番で紹介されるのか、マイクで喋るのは誰か、紹介された時にどんな風に手をあげどんな笑顔をみせるのか。こんなことも、それぞれの選対の力のいれかたを測る貴重な情報だ。くわえて、聴衆の雰囲気や視線、反応なども重要な情報となる。

 小生は、この20年間、研究者として観察する一方、一有権者として自分の票をどこにいれるかを決める貴重な判断材料を選挙演説から得てきた。ところが、今回の都議選での党首の街頭演説は、この20年に見知ったそれらとは、質を異にするものであった。

 

2017年7月1日 三党首聞き比べ

  今回の都議選、演説を聞きに行ったのは、選挙期間の最終日7月1日の土曜日であった。最近はネットで党首の日程がわかるので、演説ファンには大変ありがたい。チェックしたところ、この日の演説は13時50分から新宿で小池百合子・都民ファースト党首、16時から秋葉原で安倍晋三・自民党総裁、18時50分から八王子で蓮舫・民進党代表が、それぞれ最終演説を組んでおり、都下に住んでいる小生にとってはあたかも聞き比べてくれと言わんばかりのスケジュールに勇んで家を出た。

 まず、最初の小池演説。場所は新宿駅西口、小田急百貨店の前での演説だ。候補者の森口つかさ氏の後に、緑のハチマキと服をきた小池百合子氏が演説をはじめる。内容は首都圏直下型地震におけるリーダーシップについてが主なもので、阪神淡路大震災を地元(彼女は東京に選挙区を移すまでは神戸が選挙区だった)として経験をした自分にこそ、震災対する備えや発震時のリーダーシップがとれることを訴えるものだった。熱く訴えるというよりも、淡々とした口調での演説だった。

 会場につくのがやや遅くなった小生は、道路を挟んだバスターミーナルのところから見ていたが、興味深かったのは周りの聴衆たちが公明党の支持者っぽい人が多かったことだ。選挙演説にいく人なら理解していただけると思うが、党派によって街頭演説に集まる人々の雰囲気は異なる。特に、公明党関連の演説会を聞きに来る聴衆には独特の雰囲気があるが、そういう雰囲気をまとう人々が小池氏に熱心な声援を飛ばしていたのが印象的だった。

  小池氏の演説の後、15時半に秋葉原駅の演説会場につく。開演30分前ということで警察による整理などもなされていたが、案外人出は多くなく、街宣車の道路をはさんだトイメン、秋葉原UDXビルに向かう空中歩道の下、前から2列目ぐらいの場所に立つことができた。右手には報道陣のカメラなどが置かれたスペース、目の前は街宣車と、聞き手としては「特等席」である。前にいるのは、選挙好きそうな中年のオヤジたちに、中国語を喋る若い男女の3人のグループ。留学生か観光客だろうか、彼らは楽しそうにおしゃべりしながら、長いレンズのついたカメラで熱心に街宣車などを撮影している。


突っ込んできた「彼ら」

  時間が近づき、自民党のスタッフが日の丸を配りだす。やや会場も混んでくる。ウグイス嬢の声も大きくなり、選挙演説に来たなあという雰囲気になる。そして、定刻通り演説会がはじまろうとしたのだが、その瞬間、左後方からドドッと強い人波に押される。なんだろうと振り返ると、カメラを持った報道陣たちが割って入ろうとしているのだ。失礼な連中だとよくみると、その渦の中央には森友学園の籠池泰典氏がいる。割り込みの主体は彼だった。籠池氏が安倍氏にどんな因縁があるかは知らないが、こちらは半刻も前から確保した「特等席」である。「割って入るなよ!」「邪魔だよ!」などと、周囲の人一緒に籠池氏とそれを取り囲む取材陣に批難の声を上げていると、そこにもっと強い圧力で大きな旗を掲げた「彼ら」が「安倍やめろー」などと叫びながら左後方から突っ込んできた。

  「彼ら」は20〜30人ほどの中年男性を主体とした集団だった。中には若い男もいたが、30代、いや40〜50代が中心の男たちで、多くは黒っぽいTシャツとジーンズを着用していたようにみえた。小生は現場にいたので、全体的な俯瞰は難しいが、直接に接触したのは若い男と長髪の中年の男たちだった。割って入ろうとする「彼ら」と、会場前列にいた我々とは激しいもみ合いになった。

  「割ってはいるなよ!」「邪魔だよ!」

 「迷惑だよ!」「演説が聞こえないよ!」。

 様々な声が上がったが、彼らは「安倍やめろ!」の一点張りで、ぐいぐい押してくる。激しい圧迫で、先ほどの中国語を喋っていたグループはどこかに追い出され、小生が演説会場の最前列に押し出される。激しい圧迫。彼らは掲げた旗をわれわれの頭の上にも伸ばしてこようとする。「俺のうえにお前らの旗を掲げるなよ!」横のネクタイ姿の男性が叫び、旗を頭のうえから払おうとする。しかし、「彼ら」はその手を払い、ぐんぐんと前に出る。最前列に押しやられた小生も警備のための柵との間に挟まれた。小生の前にはSPや警官がいて、「押さないで!」「下がって!」などと「彼ら」に呼びかける。もちろん無視される。

  「安倍やめろ〜!」。

  もちろん、彼らのシュプレヒコールで演説など全く聞こえない。現場のスピーカーも倒されたのではないか。そして、何人もの人が、「彼ら」の圧迫に耐えられずSPらの肩を借りて柵を乗り越える。籠池氏が割り込んできたのが16時3分ごろなので、そこから20分ぐらいの出来事である。

 小生は、小・中・高とラグビーをやった。高校ではフッカーといってスクラムの前列中央のポジションを務め、多少の押し合いには平気の性である。しかし、安倍氏が演説する以前でのこの荒れように、演説が始まったらどうなるのだろうと身の危険を感じ、柵を乗り越えることとした。せっかくの「特等席」を捨て、SP氏の肩を借りながらの撤退である。街宣車から左側の横断歩道に警官から案内される。演説者の顔が正面から見えない三等席への移動である。

 

「こんな人」発言


  さて、安倍氏が演説をはじめた。「彼ら」は右に左にゆっくり場所を移動しながら、大旗を掲げ、シュプレヒコールを繰り返す。その大旗を演説者から見えないようにすべく、自民党青年局の幟が道路に並ぶ。安倍氏は経済政策の実績や、「新党ブーム」批判など、都政とは直接に関係のないテーマではあるが、目の前の騒動にエキサイトしたのか一生懸命の演説をおこなう。しかし、その間も「彼ら」はシュプレヒコールをおこない。それにつられたのか、「彼ら」以外の人からもヤジが飛び出す。そのなかには「天皇陛下の御心を穢しやがって、やめちまえ!」といったギョッとするような声もあったが、その時だった、例の発言がでたのは。

  「みなさん、あのように人の主張を訴える場所に来て、演説を邪魔するような行為を、私たち自民党は絶対にしません。私たちは政策を真面目に訴えていきたいんです。憎悪からはなんにも生まれない。相手を誹謗(ひぼう)中傷したって、みなさん、何も生まれないんです。こんな人たちに、みなさん、私たちは負けるわけにはいかない」(朝日新聞、2017年7月6日より)

  現場にいて、「彼ら」の暴力によって演説を静穏に聞くことを妨害された私からすると、至極真っ当な発言である。演説会にある自由は、演説者の表現の自由だけでなく、静穏に人の話を聞くという聴衆の自由もある。確かに、野次をあげる自由もあるのだろうが、その場合も、喋っている相手を喋れなくするとか、聞いている人を妨害するまでの自由を認めるべきなのだろうか?

 率直にいって「彼ら」の行動は演説者の口をふさごうとすると同時に、それを聞きに来た聴衆の耳目をもふさぐ、暴力的な演説妨害以外のなにものでもない。あれを認めると、例えば、右派による民進党や共産党の候補者や党首への同様な行為が行われた時、どういう理屈でそれを防ごうとするのか。

 「あれは安倍政権が国民の声を聞かず、国会でもデタラメな議論をしてきたからだ。有権者はあのような場でしか、声をあげれないのだ。」といった議論も出てきているが、このような議論には2つの点で問題がある。まず、ここでいう「あれ」が何を指すかだ。多くの論者は、「あれ」を演説会場であがった安倍氏へのヤジや批判の声と捉える。そして、それらの声をあげたことに安倍氏が「こんな人」と名指ししたとするのだ。

  この「捉え方」の根っこには、マスメディアによる事態の切り取り方があるのかもしれない。現場には「彼ら」以外に声をあげる人もいた。その人たちと「こんな人」をかぶせて報じられたのを見ると、このような感想を持つのも仕方がないのかもしれない。しかし、現場にいる者たちにとっては「こんな人」は「彼ら」をさしていた。安倍氏が「あのように人の主張を訴える場所に来て、演説を邪魔するような行為」と言った時に指差したのも「彼ら」である。そこをはっきりさせるべきだろう。

  現場には、数多くのジャーナリストたちが写真をたくさん撮っていたので確認も簡単なはずだ。もし、誤解を与えているとしたらジャーナリズムがファクトを伝え損ねていることになる。付け加えると、あの場には、声をあげずとも、「静穏」に安倍政権を批判するプラカード掲げる多くの人々もいた。ご年配のご婦人や若い人たちが、日の丸(といっても大半は自民党のスタッフが配ったものだが)に取り囲まれる中で静かにプラカード掲げる姿、当方としては、彼・彼女らの勇気には感じ入るところが大きかった。

 もう一つの問題は、「国民の声を聞かない」とか「デタラメな議論」というのは個々の感覚の問題であることだ。そのラインはとても曖昧で、端的にいうと主観である。その点、論者が「聞かれていない」「デタラメだ」と思ったら、小生らに加えられたあのような妨害や割り込みや暴力を認めるというのだろうか。「あれ」を擁護しようとする論者は、そこまで考えて発言しているのだろうか、現場を知ろうともせずに・・・。

 このような初めての経験ーこれは小生のような20年選手の感想ではなく、半世紀近く政治ウォッチなさっている元朝日新聞記者の早野透氏も「時の総理大臣の演説は、田中角栄首相以来欠かさず見てきたが、こんなのは初めてである」(「(新ポリティカにっぽん)自民惨敗、街頭での予兆」朝日新聞デジタル、2017年7月4日)と感想を述べているーに怒り、戸惑いながら、蓮舫氏の演説を聞きに、アキバから八王子に向かった。

八王子でも「騒ぎ」が

  八王子駅前でみたものも、はじめてのものだった。八王子駅前は演説をよく聞きにいくポイントのひとつだ。北口の東急スクエアの前が演説会場の定位置で、小泉純一郎以来、多くの党首の演説をそこで聞いてきた。今回もホームページでは、蓮舫氏の演説がそこで行われることになっていたので、駅の階段を上って向かおうとしたのだが、なにか雰囲気が違う。ここでも日の丸が林立しているのだ。中にはZ旗を掲げている男もいる。旗をもっている彼に聞くと「日本第一党」だという 。 

 「ここは民進党の演説会場じゃなかったの?」

 「いや、街宣車をおいているだけで、我々の演説会場です」。

 みると東急スクエアの前には、演説をする日本第一党の車に挟まれるように、民進党の街宣車がおいてあるがその上に候補者たちの姿はない。探すと、そこから東に200mほどの京王プラザホテルの前で民進党の候補者と蓮舫氏が演説をしていた。蓮舫氏は、小池氏が巨額に膨らんだオリンピックの予算を語らないことを批判し、少子高齢化・人口減少問題に襲われつつある東京都について熱心に語っており、真剣に聞いている聴衆も多かった。しかし、安倍氏の演説会をみてきた小生にとっては、その狭い会場に追いやられた姿が、アキバの出来事に重なった。

 日本第一党の党首の桜井誠氏は、「在日特権を許さない市民の会(在特会)」の設立者であり、在日韓国・朝鮮人などへのヘイトスピーチで有名になった人物である。一方、アキバの演説会を妨害していた「彼ら」は、そのヘイトスピーチにカウンターデモをおこなっている「対レイシスト行動集団」(旧レイシストをしばき隊)との関係が報じられている。

 その点で、2017年の都議会選挙で自民党と民進党の両党首の最終演説会は、左右両極の集団によって妨害されたことになる。両方の現場に立ち会った身からすると、主張は正反対かもしれないが、とても似たような荒れた雰囲気を感じた。彼らによる不穏な挑戦を、日本のデモクラシーの質的な劣化の端緒にしてはいけないと思う。

 我々は、誰のなにを認め、誰のなにに否というのか。真剣に、慎重に、事実に基づいて、考えるべきである。

 

<了>

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